Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

「塙」って?69 武蔵野台地の端(はな)58 世田谷七沢八八幡

$
0
0

2017.8.7 「塙」って?69 武蔵野台地の端(はな)58 世田谷七沢八八幡

 

先日、世田谷七沢八八幡の七沢は、奥沢、深沢、野沢、北沢、吉沢(二子玉川付近)、馬引沢(上馬・下馬付近)、廻沢(千歳台付近)、「八つの八幡神社」は、北澤八幡神社・太子堂八幡神社・世田谷八幡宮・駒繋神社・代田八幡神社・勝利八幡神社・八幡山八幡社・粕谷八幡神社の八社とされていることを知って、大国主を祀っている駒繋神社が八幡神社のはずはないのでは?と疑問に思ったのですが、

 

やはりこれは間違いで、八八幡は蛇崩川にある駒繋神社ではなく、烏山川にある駒留八幡神社(上馬5丁目35)だったようです(^o^)

 

領内にいくつもの八幡神社を造り、二百数十年に渡ってこの地を支配していた吉良氏が16世紀の終りにこの地を去った後、庇護者を失った吉良氏の神社は荒廃してしまったり、新しい領主に取り入ってその守護神になったりするなどいろいろ混乱や変遷があったのではないかと思うのですが、駒繋神社の祭神はずっと大国主(子の神?)だったようで、八幡神社になっていたことはないようです(^o^)

 

でも八幡神社でなかったなら、源頼義・義家親子が前九年の役の途上の1056年に駒繋神社に参拝したという由緒は作り話でしょうし、藤原氏征伐に向かう頼朝が1189年に源頼義・義家親子ゆかりのここを参拝したというのも作り話でしょう(^o^)

 
イメージ 1

 

頼朝が参拝しなかったのであれば、頼朝がここに馬を繋いだからという「駒繋神社」の名前の由来も、頼朝がここで下馬したり乗馬したりしたからこの地を下馬・上馬というという↓に記されている地名の由来も全くの作り話だということになりますね(^_-)

 
イメージ 2

イメージ 3

 

ここは古くは「馬引沢」と呼ばれていた沢で、近辺の村は「馬引沢村」だったようですから、ここに馬を繋いでいたのは、頼朝ではなく「子の神」を信仰していた近隣の村人だったのかもしれませんね(^_-)。上馬・下馬は上馬引沢村・下馬引沢村が縮まったものなのではないでしょうか。誰かがそこで何かをしたり言ったりしたとしても、それが地名になったりはしないのです。

 

八八幡のうち、駒繋神社だけが離れた所にあり、祭神も大国主だったので変だな?と思ったのですが、駒繋神社ではなく駒留八幡神社だったのであれば位置的にも納得です。多聞寺砦(三宿城)や廻沢稲荷も含めて、これらは全て、世田谷城を北西から南東にかけて包み込むように配置されていた出城(砦)だったのではないでしょうか(^o^)

 
 

ネコビタイ便り

 

先週、ヒガンバナが一本伸びて花を咲かせそうになっているのに気が付いて驚き、これまで暑い夏でも、冷夏でも、日照不足でも、ヒガンバナだけは多少のずれはあっても必ず秋のお彼岸の頃に咲いていたのに、一か月半以上も早く咲いてしまうのは、いよいよ異常気象が本格化してきたのか?と不安になったのですが、週末に開きはじめた花の色は赤ではなくピンクでした(^o^)

 
イメージ 4

 

これもヒガンバナの仲間なのですが、夏に咲くナツズイセン(リコリス・スクアミゲラ)だったのです。去年はビックリするほどたくさん咲いたのですが、今年は一本だけなのかな~?

 

台風5号は15:30に和歌山に上陸したそうですが、こちらも風がだんだん強くなってきたようです。




Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles