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「塙」って?68 武蔵野台地の端(はな)57 世田谷七沢八八幡 廻沢

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2017.8.6 「塙」って?68 武蔵野台地の端(はな)57 世田谷七沢八八幡 廻沢
 
世田谷七沢の一つの廻沢は千歳台付近のようなのですが、環八はあまり起伏のないまっすぐな広い道で、千歳台付近で沢や川や谷を越えてはいないので、いったい廻沢とはどこのことなのだろう?と地図を探すと、千歳台の信号の南西に「廻沢」の地名があり、廻沢稲荷神社がありました。
 
私はその辺りにも全く土地勘がないのですが<(_ _)>、それではその辺りも千歳台は洪積台地(武蔵野台地)で、その西側の祖師谷は仙川の流れる谷であり、廻沢は烏山川か仙川へと台地上から支流が流れ込む沢で大きな起伏のある土地だったのかもしれません。
 
地図や航空写真では、廻沢の付近には川らしきものなく、住宅が密集していて起伏も分からなかったので、とりあえず勝利八幡から廻沢稲荷神社へ向かってみることにしました。行ってみれば起伏がある土地かどうかは分かるだろうと思ったのですが、千歳台の交差点からは全く起伏のない住宅地を通って廻沢稲荷神社に着いてしまいました(^o^)。この神社は沢ではなく、沢の上の台地に造られていたということなのでしょうね。
 
廻沢稲荷神社
 
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イメージ 3

 
ここでは地形は全く分からなかったので、帰ろうとしたら、参道脇に粕谷八幡にあったのと同じ「地宮 高瀬神社」がありました。
 
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ひょっとすると「地宮 高瀬神社」が祀られているここは、元は八幡神社だったのではないでしょうか?八幡山八幡と勝利八幡では、八幡神社に稲荷神社が合祀されていましたが、ここでは八幡神社が稲荷神社に合祀されてしまったのかもしれません。
 
由緒には、「末社 天神社 御祭神 菅原道真公」と記されていましたが、「地宮 高瀬神社」は記されていませんでした。どこでも境内の摂社や末社は全部記されているのになぜでしょうね?私は、高瀬神社とは世田谷八幡にも北沢八幡にも祀られている「八幡さんの第一伴神」を祀った高良神社なのではないかと考えたので、それならここは吉良氏の時代には八幡神社だったのかもしれないと思ったのですが。
 
粕谷八幡は滝坂道(府中道)の北側にありましたが、もしかすると吉良氏はこの道の南側にも出城を置いていたのかもしれません。府中道は東西に通じる幹線道路だったのですから。これはまだ確証のない推理ですが、この神社の近くにも区立塚戸小学校や区立千歳中学校があるのです(^o^)
 
どこに川や沢があったのかが全く分からなかったので「廻沢」を検索してみたら、川は分かりませんでしたが<(_ _)>、意外なことが分かりました。


ここにあった「廻沢村」は、明治22年に付近の村と合併されて「千歳村」になったのだそうですが、その千歳村は明治26年までは「神奈川県北多摩郡千歳村」だったのだそうで、昭和11年に東京市に編入されて世田谷区廻沢町になったのだそうです。明治40年に引っ越した時には神奈川県だったから、蘆花は「東京に出るたびに・・・・」と書いていたのですね(^o^)。千歳に台をつけて千歳台になったのは昭和46年だそうです。
 
中世期の廻沢は、烏山南部、粕谷、八幡山、船橋などを含む大きな地域だったと考えられているそうですが、文政九年(1826年)の新編武蔵風土記稿には、廻沢は平地で民家56棟が散在していると記されているそうです。本当に人家や人口の少ない所だったのですね。




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