2017.8.5 「塙」って?67 武蔵野台地の端(はな)56 世田谷七沢八八幡9 勝利八幡神社
次いで八幡山八幡神社から1kmほど東の方にある勝利八幡神社に行ってみました。
八幡山八幡からそこまでの道は平坦でしたから、勝利八幡は八幡山八幡と同じ台地の上にあるようで、この勝利八幡神社の並びにもやはり区立緑丘中学校がありましたから、台地上のこの一帯が城跡なのではないでしょうか。
勝利八幡神社
ここも正式名称は「八幡宮」のようですね。
区立緑丘中学校
ここにも稲荷神社が合祀されていました。やはり誰の祖先でも氏神でもない稲荷社は誰でもどこにでも造ることができたということでしょうか(^_-)。
ここの由緒には「1026年に石清水から勧請した」と記されていましたが、この八幡神社を造ったのも、14世紀に世田谷郷の領主となった「本姓・源氏」の吉良氏であろうと思います。稲荷とは違って、氏神を祀る神社は誰にでも造れるものではありませんし、その頃八幡大菩薩を氏神としていたのは源氏だったのですから。
この神社の旧本殿には棟札が残っていて、天明8年(1788)10月に大工高橋宇八らの手によって建てられたものであることが分かっており、区内に残る本殿では最古のものだそうですが、それ以前のことは分かっていないようです。
この旧本殿の屋根の上の飾り(?)は木の色から見て新しいもののようですが、そこに卍が彫られていたので、「あれ?卍は神社ではなくお寺の印なのでは?」と思ったのですが、卍はお寺専用というわけではないようですね(^_^.)。
勝利八幡と区立緑丘中学校の間の道は北東に向かって下っていましたが、全体の地形やここも台地の端(はな)だったのかどうかは、ここからは分かりませんでした<(_ _)>。
ここは烏山川からは離れているようなので、近くに別の川があったかどうかを以前買った江戸時代の古地図で見てみようとしたのですが、世田谷区は朱引の外なのでこの地図には載っていませんでした(T_T)。
粕谷村に越した蘆花が「東京に出るたびに・・・」と書いていたので「おや?」と思ったのですが、明治の人にとっては「東京=江戸」は朱引の内のことで世田谷は東京ではなく、落合村・代々木村・渋谷村の辺りが東京の西のはずれだったようです。