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「塙」って?64 武蔵野台地の端(はな)53 世田谷七沢八八幡5 蘆花恒春園

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2017.8.2 「塙」って?64 武蔵野台地の端(はな)53 世田谷七沢八八幡5 蘆花恒春園

 
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粕谷は江戸時代には天領になっていたので、あまり開墾されていなかったそうですが、26軒しか家がなかった明治40年頃の粕谷は、こんな雰囲気だったのでしょうね。その26軒は↓のように散らばっていたようです。

 
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大正九年の国勢調査でも粕谷村は33世帯、235人だったそうですが、明治40年から大正九年までの13年の間に7世帯増えたうちの一世帯が蘆花夫妻だったのですね(^o^)。昭和46年に環八通りが粕谷付近まで開通するまではあまり大きな変化はなかったようです。

 

神社の境内に↓のようなものがあったので、蘆花と熊本とはどんな関係があるのだろう?と思ったのですが、この疑問は記念館で解決しました。蘆花は熊本県水俣市の出身だったのですね。

 
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水俣市の生家 大きな家ですね~。生家は惣庄屋と代官を兼ねる名家だったのだそうです。

 
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記念館では古い歌が聞けるようになっていたのですが、その曲目は「浪曲 不如帰」「浪子の唄」など全く知らないものばかりだったので、いったいこれはどういう選曲なのだろう?と疑問に思ったのですが、『不如帰』は蘆花の作品で、浪子はその主人公だと分かって納得(^o^)。何事にも歴史学者さんたちが自説に合わせるために好んで使う「・・・とすればよい」というようなご都合主義のつじつま合わせではないちゃんとした理由や因果関係があるのです\(^o^)/。

 

蘆花がここを見に来た明治40年には、玉電が工事中だったそうで、蘆花夫妻は当時住んでいた青山高樹町から工事中の玉電の線路を三軒茶屋まで歩き、松陰神社から世田谷宿まで世田谷往環(滝坂道)を歩いて、そこから北に切れ込んで粕谷村へ向かったのだそうです。片道10km以上を歩いてきたのですね。

 
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玉電を調べてみたら、「明治40年(1907年)3月、まずは道玄坂上~三軒茶屋間が開通した」のだそうですから、蘆花夫妻が出かけたのは明治401月から3月の間の日の短い寒い時期だったようです(^o^)

 

蘆花は「東京へ出るたびに滝坂道を通る」と記していますから、当時の粕谷村は東京という認識ではなかったのですね(^o^)。玉電の運賃は、渋谷~玉川間を5区に分けて13銭だったそうですが、これは当時の物価でコーヒー1杯、そば1杯と同じ値段でかなり高額だったので、電車賃を惜しんで歩く人の方が多かったそうです(^o^)

 

恒春園には蘆花夫妻のお墓もありました。

 
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