2017.7.31 「塙」って?61 武蔵野台地の端(はな)50 世田谷七沢八八幡3
吉良氏の造った出城(世田谷七沢八八幡)が、世田谷城の北と東に集中しているのは何故なのかと考えてみたのですが、当時の地形がその理由のようです(^o^)。
世田谷城の南の低地は当時はまだ海や湿地であり、西側も多摩川沿いにずっと内陸まで入り込んでいた海でしたから、南と西には備えの必要な大きな勢力は無く、出城(砦や監視所)を置く必要があったのは北と東だったということなのでしょう(^o^)。
ところで、世田谷八幡には「高良神社」が祀られていたので何故?と思ったのですが、北澤八幡にも「高良玉垂神社」が祀られているようです。高良神社は筑後国一宮なのですが、何故吉良氏が氏神を祀った八幡神社に高良神社が祀られているのでしょうね?
世田谷八幡の高良神社
八幡神を祀る宇佐八幡宮は豊前国一の宮、高良玉垂命を祀る高良神社は筑後国一宮で、どちらも北九州地域の支配者の祖廟ですから、この両者の間には同族関係か主従関係でもあったのだろうか?と高良神社の方を調べてみると、中世以降、高良玉垂命は八幡さんの第一伴神と位置付けられていたのだそうです(^o^)。
東大寺と大仏が建立された時には、「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」と託宣を出して、749年に奈良に出張して行ったという宇佐のカミサマは、
桓武天皇が京都に遷都した際には「吾、都近き石清水男山の嶺に移座して国家を鎮護せん」と託宣を出して、石清水八幡宮に出張していったそうです。
でも本当はカミサマがみずから男山に出張して行ったわけではなく、大和の南都大安寺の行教が出張させた(勧請した)のですが(^_-)、これらのことによって宇佐氏の氏神という「一地方神」だった八幡神は「国家神」になったようです。高良のカミサマが「八幡さんの第一伴神」になっているということは、この時八幡神にくっついて(協力して?)一緒に奈良や京都の権力の近くに出てきていたということなのでしょうか(^_-)。
この石清水八幡を造った行教は、貞観三年(861)に男山の麓の石清水八幡宮の一の鳥居の右側に高良神社を造ったそうですから、その頃からに高良のカミサマは「八幡さんの第一伴神」ということになって八幡社と高良社はセットになったのかもしれませんね(^o^)。
「石清水八幡宮に参詣した仁和寺の老僧が、麓にあった高良社や極楽寺を石清水だと思い込んで、そこだけ参拝して山の上には行かずに帰ってきてしまった」という話が徒然草にありましたが、2012年に石清水八幡宮に行った時、時間がなくてケーブルカーに直行してしまった私は、この老僧とは逆に一の鳥居にも高良神社にも行かずに帰ってきてしまいました<(_ _)>。この時もスケジュールが盛りだくさんだったので、ここではほとんどケーブルカーから地形を見るくらいの時間しかなかったのですよね(T_T)。
石清水八幡宮
ところで、彦根城に行った時ひこにゃんに会ったのですが、このひこにゃんは豪徳寺の招き猫だったということを今初めて知りました(^o^)。世田谷城本丸跡にある豪徳寺は、元は吉良氏が15世紀に造った弘徳院で、1633年(寛永10年)に井伊家が豪徳寺を含む世田谷の地を下賜されてここが彦根藩所領となった後、2代目藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺にしたのだそうです。