2017.5.28 塙って? 塙と花輪2
駅名とかI.C名は、そこで下りればそこへ行けるということが分かるような名前が付けられているのが普通なのに、谷津と船橋の境にあって「花輪」という場所はないのにI.C名が「花輪」なのはなぜだろう?と疑問に思い、「花輪」は地形を現す「塙」で、この辺りの地名だったのではないか?と考えたのですが、今日また一つ台地の端(はな)の「花輪」を見つけました\(^o^)/。
少し前に千葉生まれの人から、千葉市には「加曾利貝塚」という大きな貝塚があって、小学校の遠足で行ったことがあるという話を聞いて、そこへ行ってみたいと思いました。博物館などで「加曾利式」という表記を見たことがあって、「加曾利」っていったい何だろう?と思っていたのです(^_^.)。
「加曾利」が地名であって日帰りで行ける千葉市にあることが分かったので、どこにあってどんな地形なのか見てみたい、そこに大きな貝塚があるのであれば、縄文時代の千葉市はそこまで海だったに違いないと考えたのです(^o^)。
で、どこにあるか探してみると、「貝塚I.C」のすぐ近くでした。土地勘がなくても地理音痴でも「ここで下りれば貝塚に行ける」ということが分かるネーミングではありませんか\(^o^)/。駅名やI.C名はこうでなくっちゃ(^o^)。
行ってみてわかったのは、ここも台地の端(はな)であるということでした\(^o^)/。
そして、この台地の端(はな)には日本最大だという加曾利貝塚の他にも草苅場貝塚・荒屋敷貝塚・台門貝塚・宝導寺台貝塚・矢作貝塚・花輪貝塚などたくさんの貝塚があることが分かりました\(^o^)/。
この説明板には、「加曾利貝塚は海から6.5km離れた場所にあり、川を6.5kmも遡って運ばれた貝が、この台地上に日本最大の貝塚として残されている」と記されていますが、古代人がそんな非効率的なことをしていたはずはありませんよね。
輸送手段が発達した現在でも、漁をする人や、魚介類を扱う人たちは海辺に住んでいるではありませんか。ましてや輸送が全て人力で冷蔵や冷凍技術もなかった頃に、海から遠く離れた所に住んで、わざわざ大量の貝や魚を内陸まで運んでいたはずはありません(^_-)。
この台地の下が貝の豊富に採れる海(干潟)だったから、縄文時代の人々はこの台地の端(はな)に集落を作って暮らし大量の貝殻を残したのです(^o^)。
「毎日6.5kmの海まで往復して大量の貝を運んできていたのだろう」というのは、「悠久の大地は変わらない」と思い込んでいる学者さんたちの誤った解釈であり、全く根拠のないものだと私は思います(^o^)。
この台地の端(はな)にある「花輪貝塚」もフラワーではなく、「塙の貝塚」でしょう。