2017.5.25 塙って? 鹿嶋の「塙」
ひたちなか市武田の「塙」は遠浅の海に突き出した標高20mの舌状台地の端(はな)だったことが分かったので、それでは鹿島の「塙」はどうだろうと地図で調べてみると、鹿嶋の塙と塙神社もやはり水田に面した標高30mの同じような地形のようですから、ここも海に面した台地の端(はな)だったようです。
そこで改めて「塙」という文字について調べてみると、
音読みは「カク」・訓読みは「はなわ」「かたい」で意味は「山の突き出たところ」のこと
だそうですから、「塙」という地名は、やはり台地の突端(端・鼻)の周囲より小高い地形を表しているようです。
このところあちこちで中世の城跡を見て、それらがみな低地(水田地帯)に面した小高い所にあり、そこから見る景色もよく似ていると思っていたのですが、みな同じような台地の端(はな)=「塙」に造られていたからだったのですね(^o^)。
例えば、ひたちなか市武田の武田氏の城館のあった武田台地の端と、その頃この武田氏(源氏)と争っていた常陸大掾(平氏)の吉田氏の城館のあった水戸市の吉田台地の端は↓のように地形がそっくりです(^o^)。
武田氏館と湫尾神社があった武田台地の端(はな)
吉田氏館と吉田神社があった元吉田の台地の端(はな)
武田台地の端に円墳と思われる塚があったように、吉田台地にも吉田古墳(7世紀半ば築造の八角形墳)がありました。
吉田古墳
同じ頃に吉田太郎(常陸大掾・平氏の一族)の弟の鹿島三郎の鹿島城もよく似た所に造られていました。こちらは下から地形を写した写真はないのですが、台地の端(はな)の城跡から見下ろすと、かつては海だった水田地帯が崖下に広がる景色は同じです。
鹿島城址から 崖下は霞ヶ浦まで続く水田地帯です
吉田神社から こちらの崖下の平地には、現在はびっしりと建物が建っていますが、かつては↑の吉田氏館の写真のように、那珂川まで続く水田地帯だったのです。
鹿島城のある台地の端(はな)の地名は「城山」で、「塙」ではないのですが、塙神社がある所の地名は下塙」なのですよね。でも、「下塙」があるなら「塙」か「上塙」もあるはずと探してみたのですがありませんでしたから、ひょっとすると、鹿島城が造られて「城山」になる以前、この台地の端(はな)は「上塙」だったのではないでしょうか(^_-)。確かめることはできなかったのですが<(_ _)>。
そういえば板橋区にある千葉氏の赤塚城址も、武蔵野台地の端(はな)のよく似た所にありました(^o^)。