2017.5.24 塙って? ひたちなか市武田の「塙」2
「甲斐武田氏発祥の地 常陸武田の里」によれば、武田郷に土着して武田冠者となった源義清・清光父子の居館は、南東方向に舌状に伸びた武田台地の南端に位置し、東と西には深い谷津が巡り、南西側は断崖になっている要害の地だったのだそうですが、2010年にここに行った時にはなんの予備知識もなかったので、この神社の南西側が水田地帯に面した断崖になっているということしか分かりませんでした<(_ _)>。
ここに行ったのは本当に偶然で、ひたちなか市に出かけたのは、その日が虎塚古墳の公開日になっていたので、古墳を見学するためだったのです。古墳には知識も関心もなかった頃に新聞で虎塚古墳の壁画の写真を見て、古墳だから奈良か大阪の方にあるのだろうと思っていたのですが、その古墳がひたちなか市にあるということを知って驚き、なぜひたちなか市に古墳があるのか?どんな所にあるのか?と好奇心が膨らんで、まさに「なんでなんで」と公開日を待って出かけて行ったのです(^o^)。
虎塚古墳
古墳内の見学には人数制限があったので、順番を待って並んでいる間に受付にあった↓の資料を見て、ひたちなか市に「武田」があることも、武田氏が常陸の人だったことも全く知らなかった私はまたまた驚いて、一冊購入しながらこの「常陸武田の里」はどこにあるのかと聞いてみたら近かったので、ついでに寄ってみたというわけなのです(^o^)。
この資料を見て、「吉田」「武田」「佐竹」「逸見」などの姓とされているものは、やはり支配地の地名だったのだと確信することができました\(^o^)/。
どこをどう通って辿りついたのか記憶がないのですが、武田氏館に着いた時、私はそこが館跡なのだと思ってしまったので、帰宅してから購入した資料の写真を見て、行った場所と写真の館跡の地形や風景が全く違うことに驚いたのですが、私は北東の台地の方から武田館に着いて、常磐線の西側にあった神社の南西の崖と崖下の水田を見ただけで、実際に館があった常磐線の東側には行っていなかったのですね<(_ _)>。
ずっと写真にある武田溜や深い谷津はいったいどこにあったのだろうと不思議に思っていたのですが、やっと謎が解けました。もう一度行ってみれば地形がよく分かり、もっとたくさんのものが見えるかもしれません(^o^)。
現在の湫尾(ぬまお)神社前の道路は、往時は深い切り通しで稲荷谷津に連結し、神社域を囲んでいた濠だったのだそうですが、神社の前の道までは行ったのに、その時は切り通しにも濠の跡にも見えませんでした。「視覚を真に司るのは眼ではなく知識」のようですから、それを知った上で改めて眺めれば、切り通しや濠の痕跡を見つけられるかもしれませんね(^_-)
武田氏館略図
現在は美田となっている南西側の水田地帯は海抜5~7m位ですから、この水田と那珂川は縄文時代には海であり、古代~中世にも崖下や東西の谷津はまだ海だったと思われます。この「塙」は遠浅の海に突き出した舌状の武田台地の端(はな)であり、常磐線は、この台地の端の館跡と神社の間を切り通して敷設されているようです。