2017.5.19 将門の石井の営所と地形
「将門探訪」に出かけた当時の私には将門に関する知識がほとんどなかったので<(__)>、なぜ将門は現代まで祟り続けるほどの怨霊になったとされているのだろう?将門の首塚や胴塚は本当に存在するのだろうか?それともこの小説は全部がフィクションなのだろうか?と好奇心が膨らんだのです(^o^)。
当時の私は神社に祀られているのは「神様」だと信じていて、ニンゲンが祀られているなどと考えたことも無かったので、神田明神が神様ではなく「ニンゲンの将門」を祀る神社だということも信じられませんでしたし(^_^.)。
というわけで、2007年に岩井に出かけた時には、将門の胴塚は本当に岩井にあるのか、地元ではどのように伝わっているのかなど将門の実像を知るのが目的だったので、地形との関係などは全く考えてみなかったのですが、今回は以前より水面が小さくなったような気がする菅生沼を見て、この沼には流入河川や流出河川があるのかどうかが気になってきたので、地図で地形を調べてみました。
菅生沼は東西に続く標高20mほどの台地の間を南北に伸びている標高10mほどの谷にあって、この谷にはいくつもの川が流れていて、上流にはもう一つ菅生沼があったのですが、この二つの菅生沼は、以前はこの谷を満たしていた一続きの大きな沼だったのではないでしょうか。
奈良時代に筑波の麓まで海だった頃には、標高10mのこの谷も海だったに違いないと思い、この谷はどこまで続いているのだろう?と辿ってみると、将門の石井の営所や将門を祀る国王神社の先まで続いていて、将門関連の遺跡はこの谷の東側の台地上にあったことが分かりました。ということは、将門の時代の長距離移動や輸送の手段は主に舟だったのでしょうね、
将門の居館の鬼門に造られていたという延命寺の本尊は「島の薬師」と呼ばれているようです。延命寺へ行った時、なぜ陸地にあるこの寺が「島の薬師」なのだろうと奇異に思ったのですが、現在は水田地帯にあるこの寺は、藤原秀郷らによって石井の営所一帯が焼き払われた後、この低湿地に再建されたものなのだそうです。その頃この場所は、本当に島だったのでしょう(^o^)。
「島広山延命寺 島の薬師」
将門は、千葉県の佐倉市で生まれ育ったようですが、今は利根川を境に千葉と茨城に別れている佐倉と岩井は、将門の時代には一体のものだったようです。江戸湾に流れ込んでいた利根川が付け替えによって東遷し、銚子の方に流されるようになったのは家康の時代になってからですし、1868年(明治元年)には現在の千葉県北西部、埼玉県東部、茨城県西部は葛飾県として一括りにされていて、その当時の県庁は、流山市に置かれていたそうです。
1871年(明治4年)には葛飾県から印旛県となり、1873年(明治6年)に北西部の印旛県と南部の木更津県とが合併して千葉県となり、その時に県庁は千葉県のほぼ中央にある千葉市に移されたのだそうです。