2017.4.4 歌姫明神3
高橋虫麻呂が参加した歌垣は、歌姫明神だったのか夫女が原だったのかということに関しては、虫麻呂は国司に随行して官人として石岡の国府にやって来たのですから、虫麻呂が視察に出向いたのは平沢官衙だったのではないでしょうか。虫麻呂は那珂郡の郡衙(現在の茨城大学)にも出向いて、「曝井(さらしい)」の歌を残していますしね。
曝井
夫女が原は平沢官衙の背後の低い山の向こう側なのです(^o^)。
虫麻呂はこの筑波の歌垣では「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の 其の津の上に・・・・」という歌を残しているのですが、夫女が原(ぶじょがはら)の小字名は「裳萩津(もはきつ)」だったそうで、この「裳萩津」が虫麻呂が歌に残した「裳羽服津(もはきつ)」のようですから、虫麻呂が参加した歌垣は真壁の歌姫明神ではなく、筑波山南麓の夫女が原で行われたものでしょう(^o^)。当時、麓の水田地帯は豊浦と呼ばれる海で、裳萩津は津(港)だったのだろうと思います。
当時は海(豊浦)だった水田地帯
筑波山の手前の丘(低い山?)に「筑波ふれあいの里」があって、ここに虫麻呂の歌を刻んだ石碑がありました(^o^)。
水田のこちら側には、インドからお姫様が流れ着いたという「金色姫伝説」の蚕影山神社があり、地名は「豊浦」です(^o^)。
豊浦に建つ「老人医療施設 豊浦」 この突き当りの山に蚕影山神社があります。
筑波ふれあいの里の付近には縄文時代からの遺跡や古墳が多くあり、現在「筑波ふれあいの里」となっている辺りには古代の条里制遺構もあったそうですが、1979年(昭和54年)の耕地整理で失われたのだそうです<(_ _)>。
この虫麻呂の歌を根拠に(?)、「歌垣とは若い男女の求愛の場だった」とか「東国の歌垣でやっていたのは、人妻に吾も交はらむというようなことだった」といった解釈が学者さんの間では「定説」になっているようですが、私はこれは全くの間違いであると思います。その理由は2015.1.7~1.12の「歌垣1~5」を御覧ください。