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歌姫明神2

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2017.4.3 歌姫明神2

 

昨日は、靖国神社の標本木が満開になったということでしたが、筑波周辺の桜はまだ蕾で、小田城址の桜もまだ↓くらいの咲き具合だったので、お花見も兼ねて、という目論見はハズレてしまいましたが(^_^.)、それを補ってあまりある発見がいろいろありました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。


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歌垣が行われていたという伝承のある歌姫明神の場所が分かったので、それでは、やはり歌垣の伝承のある筑波山南麓の夫女が原と筑波山北西麓の歌姫明神のどちらで歌垣が開かれていたのだろう?と考えてみました。

 

歌姫明神の社がある場所は標高70mで周囲より小高くなっていましたが、平野を通る県道41号の辺りは50mで、この水田地帯は、古代には海だった騰波ノ江の方に向かってだんだん低くなっていますから、今は内陸の山裾になっているここも、古代には霞ヶ浦に続く海に面した交通の便の良い場所だったようです。

 

『常陸国風土記』には「郡の西十里に騰波の江あり。長さ二千九百歩、広さ千五百歩なり。」と記されていますから(^o^)、常陸国司になった藤原宇合に随行して高橋虫麻呂が石岡の国府にやってきた8世紀には、現在の下妻市騰波の江周辺の広大な水田地帯はまだ陸地ではなかったのです。

 

騰波ノ江駅と周辺の水田地帯

 
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海が退いて陸地が増えていくにつれて行政区分も変わっていったようで、「騰波の江」が海や湖だった頃には新治郡の一部だった真壁は、後に分離独立して白壁郡(真壁郡)になっていますから、歌姫明神は分離した後の白壁郡(真壁郡)の歌垣が行われていた所だったのかもしれません。『常陸国風土記』に記された古代の新治郡は、近世や現代の新治郡とは全く違うのです。

 

ここまで見てきたところでは、支配者の宮はその地方の水陸交通の要衝後の地に置かれ、宮の跡地には公共施設や学校が作られていることが多かったのですが、ここでは桃山中学校のすぐ西側に古墳があり、古墳の西には霞ヶ浦に注ぐ桜川が流れていて、学校のすぐ北側には神社がありました。そして羽鳥道もここから始まっていましたから、桃山中学校は真壁郡が分離独立した後の支配者の宮跡で、吾妻山古墳はその墓、神社は被葬者の祖廟だったのではないでしょうか(^o^)この古墳は前方後円墳ではなく直径20mほどの小ぶりな円墳のようですから、築造時期も下るようですし

 

桃山中学校の標高は34mなので、低すぎるのではないかと思ったのですが、真壁郡が分離独立したのは時代が下ってからのようですから、34mはもう乾いた土地になっていたということなのでしょうね。


桃山中学校の前から見た筑波山


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