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タケミカヅチの墓5

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2017.4.1 タケミカヅチの墓5

 

大井神社の由緒には、祭神は(『古事記』の荒唐無稽なカミサマではなく)崇神天皇の時代にやって来て那珂国の初代国造になった「建借馬命(タケカシマノミコト)」、つまりニンゲンであることや「臣」、つまり天津族の王族であることがはっきりと記されていました(^o^)


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このように、何の根拠もない「作り話のカミサマの話」ではなく、1500年以上もの間「歴史」としてこのことを連綿と伝えてこられたのであればここの宮司さんは諏訪の神長官の守矢氏や高麗神社の宮司の高麗氏と同じように、祭神・建借馬命(=タケミカヅチノミコト)の子孫で、5世紀頃から宮司を世襲してこられた方かもしれないと考えたのですが、この時はお出かけになってしまったということで、お聞きすることはできませんでした(T_T)

 

↑の記事に載せてある大井神社の境内に並んでいた小さな社がなんなのか、氏子さんたちは宮司さんが造っているということ以外は何も知らないということだったのですが<(_ _)>、その後訪ねた那珂市歴史民俗資料館で「藁奉殿」というもののようだということが分かりました。でも、それが何のために作られ、どう使われていたのかは資料館でも分からないということでしたが<(_ _)>

 

大井神社の小さな社

 
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歴史民俗資料館に展示されていた藁奉殿

 
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でも今なら分かります\(^o^)/。木や藁で作られた小さな社は、石で恒久的な社が作られるようになる前の祖先を祀る廟だったのです。それを確信させてくれたのは、2016年の藤森照信氏のコラムでした。藤森氏が一族の古老に頼んで作ってもらったという昔の社は、大井神社の小さな社にそっくりな↓のようなものだったのです。


1950年頃まで(?)諏訪で造られていた社


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藤森氏は1946年のお生まれですから、1950年頃にはもう石造りのものに変わってしまっていたのでしょうね。

 

出雲の熊野大社の鑚火殿や、諏訪の前宮にあったという精進屋や、1950年頃までは6年毎に作り替えていたという諏訪の家々の社を見ると、この形の祖廟はスサノオが渡来して来た頃から造られていたようですから、スサノオが朝鮮半島から持ち込んだものなのかもしれません(^_-)

 

このような古い祖廟の形が連綿と伝えられていて、今も作っていらっしゃるという大井神社の宮司さんは、やはり5世紀頃から宮司を世襲してこられた建借馬命の子孫なのかもしれません(^o^)

 

2011年にpcat2sさまから、「ひたちなか市に甕星香々背男(ミカホシノカカセオ)の研究をされている方がいて、香々背男の子孫は久慈川沿いに北進して福島・茨城県境(棚倉町)あたりに移り住んでいたようです」というコメントを戴いた時、やはり香々背男は実在の人で、香々背男と戦ったタケミカヅチが水戸に居を定めたのは、その周辺にはまだ香々背男の勢力が多く残っていたからだったのではないかと考えたことを思い出しました。

 

石岡や水戸の周辺、水戸から北の常陸太田・大甕(おおみか)・日立にかけては、香々背男の足跡や伝承や星宮神社がたくさん残っているのです。

 

カカセオについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第5章の1「甕星香々背男とは?」をご参照ください。




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