2017.3.30 タケミカヅチの墓3
初代那珂国造となったタケミカヅチの墓は、水戸市愛宕町にある茨城県で最大級の古墳である愛宕山古墳であり、兄で毛野国の初代国造になったトヨキイリヒコの墓は、群馬県高崎市倉賀野町にある5世紀初頭頃に築造された墳丘長171.5m・高さ14.1mの浅間山古墳であろうと思います。
そして、タケミカヅチの子孫がタケミカヅチを祀ってきた祖廟は、水戸市飯富町にある「初代那珂国造・建借馬命」を祀る大井神社のようです。カミサマのお墓は、『鹿島神宮誌』が記しているようにそのカミサマを祀る神社のある地に造られていたのです\(^o^)/。そのことは、神社庁から派遣されてくる神職はともかくとして、子孫である世襲の神職にとっては常識なのでしょうね(^_-)。
大井神社
大井神社由緒
ここには、「建借馬命は、もとは肥の国の意富臣(おふのおみ)で神武天皇の息子の神八井耳命の子孫であり、崇神天皇の時代にトヨキイリヒコの命を奉じて当地にやってきて那珂国の初代国造になった」ことが記されています。
「神話」と「神武の東征」は、1000年水増しした部分に『古事記』が創作した事実無根のオハナシで、実際に東征したのは4世紀末の崇神ですから、ここまでのことと総合すると、この建借馬命が「神代に大国主に国譲りをさせたタケミカヅチ」であり、「神武天皇の息子の神八井耳命」であり、実際は崇神天皇の息子でトヨキイリヒコの弟であって、鹿島神宮の祭神となっているけれど鹿島には墓(古墳)がない「タケミカヅチノミコト」だということになりますね(^o^)。
この神社のある「飯富村(現・町)」は地形に由来する地名ではないので、地名としては違和感があったのですが、由緒に「大井神社の元は意富比(おほい)神社であること、意富は飫富とも書き、これが飯富の語源であること、建借馬命はもとは肥の国(佐賀・熊本)の意富臣(おふのおみ)であること」が記されているのを見て全てが論理的に繋がりました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
建借馬命の曽祖父は崇神天皇の伯父の意富比古命(大毗古命・大彦命・オオヒコノミコト)なのです。
天津族が東征を始める前、狗奴国が邪馬台国連合を滅ぼして九州統一王朝を作り、大宰府に後に「遠の朝廷(とおのみかど))と呼ばれた朝廷を開いた頃に、崇神天皇の伯父の意富比古命が領地としていたのが肥の国(佐賀・熊本)だったのでしょう。その宮は佐賀県の鹿島にあったのではないでしょうか。佐賀県と茨城県が「鹿島市」の市名を争った時に佐賀県が勝って「鹿島市」を名乗り、茨城県の旧鹿島町は「鹿嶋市」を名乗ることになったのは、佐賀県の方が古かったからです(^o^)。
実際は「佐賀県に鹿島市がすでにあるのだから、後から同じ市名を付けられては困る」ということだったのでしょうけれど、「佐賀県の鹿島市が先にあった」ということの背景には上記のような3世紀からの歴史があるのです。
歴史は、歴史学者さんたちが多用する「・・・と考えればよい」というような恣意的なつじつま合わせの解釈で成り立っているのではなく、論理的な因果関係で繋がっている途切れることのない流れなのです(^o^)。
全国にたくさんある「太田」は天津族の本貫の地である百済の「太田・テジュン」に由来するのではないかと推理したのと同様に、地形に由来しない「鹿島」も朝鮮半島に由来する地名なのではないかと推理したのですが、これはまだ確認できていません。