2017.3.25 「人間が神になる話」
神祇官たちは、明治になると「国家神道」をデッチあげて廃仏毀釈を掲げ、寺院を潰すことに躍起になっていたようです。
宇佐神宮の神宮寺だった弥勒寺もこの時廃寺とされたようです。それまでは神職よりも社僧の地位の方が高かったのだそうですが。
そして神祇官たちはお手盛りで華族(男爵)になったわけですが、この時、東西本願寺の大谷家だけは神祇官より2ランク上の伯爵になっています。
なぜ僧なのに大谷家だけが神祇官より上の伯爵になったのだろう?神祇官たちは文句を言ったり、自分たちも伯爵にしてほしいと不平を言ったりしなかったのかな?と考えていて、司馬遼太郎氏の『歴史と視点』の中の「人間が神になる話」に本願寺のことが書いてあったことを思い出しました(^o^)。
大国主は実在の人だったと考え、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」にその推理を書いた私は、その大国主の子孫という方が実在していて司馬氏と同じ会社に勤めていらしたこと、その方から伺ったお話を司馬氏が「生きている出雲王朝」という作品に記されていたことを知って、推理を確かめようとそれが収録されている本をさっそく買いに行きました。
書店に出かけたついでに司馬氏の歴史に関する本を何冊かまとめ買いし、店内に併設されているカフェでコーヒーを待っている間に買い込んだ本の目次を眺めていたら、「人間が神になる話」というタイトルが眼に入ったのでその場で読み始めて思わず吹き出してしまったのですよね(^o^)。
本願寺の門跡が巡錫(旅行)に出た時に、門跡が入ったお風呂の残り湯をこっそり頂戴して飲むと難病が治るという俗信が戦後まであったのだそうで、ある時、門跡が風邪をひいて入浴しなかったので、お付きだった司馬氏の知人が入浴して湯殿を出ると、一人の老婆が素早く入り込んで竹筒に湯を満たして出てきたのだそうです。
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老婆は不覚であった。門跡の大腸菌の入っていないものを汲んでしまった。
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そこで、気の毒に思った知人は老婆に声をかけ、「あの湯は私が入ったのですが」と言ったところ、しばらく固まっていた老婆は、ぴしゃっと吐き捨てるような勢いでその場に湯を捨てたのだそうです(^o^)。
大笑いしながら、麻原彰晃が体を洗った水を「飲めば病気が治る聖水」として高額で売っていたというオウム真理教のことを思い出しました。それを聞いた時、「気持ちわる~い そんなものを高いお金を出して買って飲む人がいるのかな?」と思ったのですが、これはオウム真理教のオリジナルではなく、伝統的なおまじないだったのですね。「鰯の頭も信心から」ということでしょうか?
浄土真宗の始祖の親鸞は、そういった神頼みやおまじないや祈祷などの類いを一切否定していたのだそうですが・・・・・
私はオウムの話を聞いた時、そんなものを高額で売るのは食品衛生法違反だし、薬事法違反だし、誇大広告だし、要するに詐欺なんじゃないの?と思ったのですが、宗教を名乗れば何でもありなんですね<(_ _)>。宗教は不輸不入ばかりではなく、治外法権でもあるようです。