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大阪府豊 中市

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2017.3.13 大阪府豊中市


このところ毎日耳にする豊中市ってどこにあるどんな所なのかな?と調べてみました(^o^)

 

豊中市の地理は、高級住宅地の北部(待兼山・東豊中・緑丘・上野坂等)・中部(曽根・桜塚・長興寺等)、そして商工業地域の南部に分かれていて、千里丘陵に面する北部が高く、南に行くほど低くなっているのだそうです。

 

典型的ですね。どこでも高台は高級住宅地、低湿地や埋め立て地は商工業地帯や庶民の住む場所になっていたのですが、海面の高かった古代には一等地だった高台は、現代ではたいていどこへ行くにも急な坂を上り下りしなければならない不便な場所になってしまっているのですよね。坂の路面には滑り止めが施されていますが、雪が積もったり凍結したりすると歩くのはもちろん車でも滑ってしまいそうな・・・・

 

豊中市でも古代には高台の上が一等地で、現在の中部(洪積台地)は、当時は庶民の住む湿地や海であり、海面が下るにつれて中部の洪積台地が住宅地となって現在の大阪平野(沖積低地)が湿地や海となり、その低湿地や海だった所が江戸時代には干拓で水田となって、現在は水田だった所が埋め立てや造成などで住宅地や商工業地域になっているようです。

 

ところで、高級住宅地だという「待兼山」ってマチカネワニの化石が出た所なのですよね。ワニの化石があるということを知った時、「エッ!本当に大阪にワニがいたの?」とびっくりして、その化石がどこから出たのかを調べてみたことを思い出しました。大阪では高槻市や岸和田市からもワニの化石が見つかっているのです(^o^)

 

「昭和391964)年に、豊中市芝原の待兼山(大阪大学理学部構内)の大阪層群の第7層と第8層の間のカスリ火山灰層(更新世前記40万年前)で全長8mのワニの化石が発見された」ということが分かったので地図も調べたのですが、当時私は大阪に行ったことがなくて、地名や地理や地形などが全く分からず、「待兼山」というのだから山なのだろうな、でもワニが山の上に住んでいたはずはないから、そのワニが生きていた頃は、待兼山は海か海辺だったのだろうな、と考えたのですが、そのワニのいた待兼山が今は豊中市の高級住宅地になっているのですね(^o^)

 

待兼山は標高60m位のようですが、現在高級住宅地と言われている土地は、沖積低地の平野よりも標高が高く、早い時代に乾いた土地なので、古代から支配階級が広い敷地を占めて宮や大きな邸宅を作って住んでいたため、今でも「高級住宅地」と言われていのですが、そういう場所にはそれらの古代の支配者層の墓である古墳が造られているのですよね。

 

調べてみると、待兼山にもやはり大阪大学の北方に古墳時代前期(4世紀)に築かれた前方後円墳があったそうです。標高と時期から見て、これは東征以前の大国主の時代の古墳でしょう。

 

豊中市では、中部の桜塚に古墳群があって44基の古墳が確認されていたそうですが、こちらは標高20m位で、中期末から後期初頭にかけて(6世紀)のものだったようですから、東征以降に天津族が造ったもののようです。古墳時代中期には、海面は20m以下になっていたのです。

 

「瑞穂の國記念小學院」の建設地は、豊中市の南の標高4mの所ですから、江戸時代に水田になった沖積低地のようです。「平成277月から12月にかけて、学校法人森友学園の依頼により小学校予定地(豊中市野田町)の建築に支障のある範囲の深さ3mまでの地中障害物撤去工事と設計事務所より指定された範囲のみの土壌改良工事を施工した」のだそうですが、この3mは水田だった所を宅地化するために盛り土をした部分でしょうか。

 

その後、敷地の深さ9.9mまでの部分から大量のゴミ(産業廃棄物)が発見されたということで、このゴミの撤去費用として8億円の値引きがされたわけですが、このゴミは撤去されなかったようで、ほんとにゴミがあったのかどうか疑わしいという話になってきているようです。

 

もしここが江戸時代以降水田になっていたのであれば、水田の下に産業廃棄物が10m近くも埋まっているはずはありませんよね(^o^)。この土地が宅地に造成される前に産業廃棄物を埋める深さ10mの巨大な穴だったのか、江戸時代からの水田だったのかは、調べればすぐに分かるだろうと私は思うのですけれどね(^_-)




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