2017.2.8 宇佐神宮12 伊勢神宮
架空のアマテラスを祀る伊勢神宮は、天皇家はもちろんのこと誰の「祖廟」でもないのですから、誰が何のために造った神社なのか分からず、このブログを始めたばかりの頃に少し調べてみたことがありました(^o^)。
ちょうどその頃だったと思うのですが、新聞で「伊勢神宮の宮司さんが代わった。新しい宮司さんは大企業の社長だった人なので、式年遷宮に向けてその経営手腕に期待する」という記事を見て、「エッ!神社って経営するものなの?」と心底驚いたことがありました(^_^.)。考えてみれば、立派な社殿の維持費にしても、式年遷宮の費用にしても、人件費にしても、カミサマが出してくれるわけではないのですから当然のことだったのですが(^_-)、当時の私にはカミサマと経営を結び付けて考えるという発想が全くなかったのです(^o^)。
伊勢神宮は、国家神道が作られて以降は皇祖神を祀る神社として皇族が参拝する神社になっているようですが、平安末期から明治時代までは皇室との関係はなくなっていたようで、中世には戦乱などで荒廃してしまっていたのだそうです。その時期に地方に出向いて行って伊勢暦や御札などを配り、伊勢神宮を庶民の信仰の対象に仕立てることで人々を「お伊勢参り」に勧誘し、神宮を維持していたのは、皇室とは関係のない庶民出身の「御師・おし」と呼ばれる人達だったそうですから、なるほど、祭神も御神徳も経営そのものだったのですね~。
オカネがなくてはカミサマもお手上げのようです。外宮の豊受大神が伊勢に祀られることになったのも、由緒によればアマテラス(伊勢神宮?)が逼迫して食べるものにも事欠いたからのようですし(^_-)。でも先年の式年遷宮では、日本人の七人に一人(?)が伊勢に行ったそうですから、宮司さんは期待以上の経営手腕を発揮されたようですね。
ところで宮司さんって誰?と調べてみたら、五摂家の一つだった鷹司家の28代目当主さんなのだそうですが、鷹司家はアマテラスのオハナシを作った不比等の次男の藤原房前(北家)を祖とする家ですよね。歴史は連綿と続いていたということでしょうか。
江戸時代になると御師達の活動によって庶民が「おかげ参り」に熱狂し、全国から集団で伊勢神宮に押し寄せたそうですが、その人々はアマテラスが皇祖神だからと有難がって「おかげ参り」に行ったわけではなく、この時のアマテラスは御師によって庶民の「商売繁盛の守り神」になっていたので、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていたのだそうです。
そのため目的を「伊勢参拝」とすれば手形が簡単に発行されたので、「おかげ参り」は物見遊山の旅行の格好の口実になり、江戸末期になると店の小僧がある朝突然いなくなって伊勢参りに行ってしまうという「抜け参り」が流行したそうです(^o^)。ヒシャクを一本担いでいくのが「抜け参り」のしるしで、「抜け参り」だったと言えば出奔もとがめられなかったのだそうです(^o^)。(司馬遼太郎著『庭燎(にわび)の思い出 ―伊勢神宮遷宮に寄せて』より)
司馬氏の思い出のこの遷宮は、連合軍によって国家神道が潰された敗戦後8年目の昭和28年のことで、「こんにちのように大衆社会をあげての病的な物見高さという習慣がまだできていなかったのか、参詣者は少なかった」そうですが、これは、「国家神道は周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系である」と批判されていた時期だったからなのでしょう。
荒廃するとアマテラスを「庶民の商売のカミサマ」に仕立て、国家神道が作られると今度は「皇室御用達の皇祖神」に格上げするなど、時流に合わせて経営方針を変えていった神社もしたたかですが、それを逆手にとって移動が厳しく制限されていた時代に大挙して物見遊山の旅に出る口実にした庶民はもっとしたたかだったようですね(^o^)。