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陸行水行

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2017.1.12 陸行水行

 

『陸行水行』の書き出しの「宇佐、豊前善光寺、四日市、安心院(あじむ)の盆地、妻懸部落、妻垣神社」などの地名と地形の描写には強く惹かれるものがあって、行って確かめてみたいと思いました(^o^)

 

妻垣神社を調べてみると、現在の妻垣神社は黒田長政によって再建された拝殿や本殿を持つ朱色の建物のようですが、共鑰山の八合目に神武天皇の母・玉依姫命を祀る「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」が、社ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座しているそうです。

 

『陸行水行』には「この神社は大変に古い。今は小高い所に小さな社と、玉垣を巡らした境内とがある。百姓家の前から山林の間を分け行って胸を突くような急な坂を登った。・・・やや広い棚地に出た。そこには、粗末な木で囲った垣の中に古い石が一個ぽつんと置かれてあった。」と記されていますから、清張氏が行った妻垣神社はこちらの方のようですね。かつては三合目に拝殿があったそうですから、「小高い所の小さな社」というのはその拝殿のことでしょうか。ここには『古事記』が神武の東征に記した足一騰宮があったとの伝承があるそうです。

 

それなら神武(実際は崇神)は船団を率いて船で東征に出発したのだから、安心院盆地は当時は海だったのではないか?と考え、地理音痴の私は例によって安心院がどこにあるのか分からなかったので地図で検索してみたところ、国東半島の西、周防灘の南で、由布院の近くだということが分かったのですが、小説にある豊前善光寺から四日市に向かう支線を見つけることはできませんでした。

 

調べてみると、清張氏が初めて安心院を訪れたのは昭和17(1942)だったそうですが、その時に豊前善光寺から乗った四日市に向かう支線は、昭和28(1953)に廃止されてしまったそうですから、『陸行水行』が出版された昭和36年には小さな社も四日市に向かう支線もすでに無くなっていたようです。

 

後世の人がこの『陸行水行』を読んで、その時点での状況だけを見て判断すると、「小さな社や支線は存在しないので清張氏の創作か勘違いだと考えればよい」または「なぜ存在しないものを書いたのかは謎である」というようなことになるのでしょうか(^_-)

 

たかだか20年くらいの時を経ただけでもそのように変化してしまっているのですから、1300年も前に書かれた『古事記』や『風土記』を現在目にしている地形や現在の地図で解釈してつじつまを合わせようとするのは根本的に間違っているのです。

 

現状とは全く違っていて謎だらけの『常陸国風土記』の記述は、高橋虫麻呂が常陸国守となった藤原宇合に随行して常陸にやってきた8世紀初めの常陸国の地形で、虫麻呂は見たままを記したのではないかと考えて実際に辿ってみたら、虫麻呂は方向も距離も正確に記していたことが分かりました。

 

そのことから私は、『魏志倭人伝』に記された方向や地形や旅程は3世紀の地形や旅程を正確に記していることを確信しました。記述と現在の地形や地図が合わないのは、地形の方が変わってしまったためなのですから、原文を歪めて恣意的に解釈してはならないのです。




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