2016.12.17 穂高神社と安曇野154 安曇族(海人族)92 醍醐天皇
それやこれやで、「学者の常識」や「学説」や「定説」というものには疑問が増える一方だったのですが、そういった常識や定説や学説が納得できないのは間違っているからじゃないの?と考えてみたら謎は次々に解けてきました\(^o^)/。
良房の養子となって清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたって天皇を傀儡として朝廷の実権を握り、絶大な権力でゴリ押しを通してきた基経が891年に死去した時、871年生まれの嫡子の時平はまだ20歳と若年だったため、24才になっていた宇多天皇は親政を開始することができたようで、893年に時平とは血縁関係のない敦仁親王を東宮に定めて、時平が天皇の外戚となる道を封じたのだそうです。立太子した893年には、敦仁親王はまだ8才で妻はいなかったでしょうから、時平との姻戚関係もなかったわけですね(^o^)。
宇多天皇自身も藤原氏とは血縁関係はなかったようですが、源定省時代に基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子になっていたのだそうです。藤原氏の後ろ盾がないと役職にも就けず、出世もできなかったのでしょうね<(_ _)>。そのうえ、臣籍降下していた「源定省」には皇位継承権はなかったのに、基経のゴリ押しによって天皇になれたわけですし、阿衡事件では基経の娘を女御に押し付けられてしまったのですから、藤原氏の包囲網でがんじがらめだったようです。
宇多天皇は敦仁親王を12才で即位させると、その正妃には自らの同母妹・為子内親王を立てたのだそうですから、宇多天皇が897年に敦仁親王に譲位して30才で出家してしまったのは、出家することで藤原氏とのしがらみを断ち、藤原氏とは血縁関係のない12才の敦仁親王を天皇に立てて上皇として実権を握るつもりだったのかもしれません。
醍醐天皇は12才で自分の叔母と結婚させられたのですね。そういえば、光源氏も12才で年上の左大臣家の姫(葵上)と結婚させられたのですよね。この結婚は左大臣が光君の将来を見込んでの「青田買い」だったようですが、この時代の結婚って政略結婚ばかりだったようです(T_T)。
宇多天皇はこの同母妹が産んだ子を醍醐天皇の皇太子に立てて藤原氏を排除するつもりだったようですが、この為子内親王は、女児を一人産んだものの男児を生むことなく2年後に亡くなってしまったのだそうです。ここで宇多天皇の計算はすっかり狂ってしまったわけですね。
そして敦仁親王はそんな父への反発もあったのでしょうか、宇多天皇の反対にもかかわらず基経の娘で時平の妹の穏子を女御として入内させ、時平を姻戚にしてしまったばかりか、時平の讒言を容れて宇多天皇が信頼し右大臣に抜擢した菅原道真を大宰府に左遷してしまったのです<(_ _)>。
醍醐天皇も摂関を置かずに形式上は親政を行ったことになっているようですが、実際は901年に時平の讒言を容れて道真を左遷するとすぐに時平の妹の穏子を女御にして時平と義兄弟になっているわけですから、時平の影響力は大きかったのでしょうね。
885年生まれで、12才で即位した(させられた?)敦仁親王(醍醐天皇)にとって、871年生まれで14才年上の時平は頼れるお兄さんであり、父や845年生まれで40才も年上だった道真よりも時平の方にずっと親しみを感じていたのではないでしょうか(^o^)。そもそもまだ庇護の必要な子供を天皇にするということ自体に無理があったのです<(_ _)>。
ところで藤原穏子が入内したのは901年で、基経が亡くなった後ですから、醍醐天皇の女御に穏子を送り込んだのは父の基経ではなく、兄の時平だったのですね。
韓国歴史ドラマには娘や姉妹を王の後宮に入れて王を支配しようとする人がよく出てきますが、どこの国でも同じように、娘や姉妹(場合によっては妻も)とは権力者に近づくためや人質として使われる道具だったのですよね(T_T)。