2016.12.19 穂高神社と安曇野155 安曇族(海人族)93 藤原氏と天皇
宇多天皇の譲位を受けて12才で天皇になった敦仁親王(醍醐天皇)には、藤原北家の時平が自分の妹の穏子を女御として入内させており、この穏子も923年に中宮(=皇后)になっています。
醍醐天皇にはたくさんのお后がいて、子供も36人もいたそうですが、その中から穏子が中宮(=皇后)になり、穏子の産んだ子が皇太子になれたのは、兄・時平の力(陰謀?)によるものだったのでしょうね。どんな手を使ってでも娘や姉妹を皇后にし、その子を皇太子や天皇にすることができれば権力闘争における勝利だったのです。
穏子が903年に産んだ第二皇子の保明親王は904年にわずか1才で立太子されたそうですが、923年に20才で亡くなってしまい、その後保明親王の子の慶頼王が2才で皇太孫に立てられたのだそうです。
ところがこの慶頼王も925年に5才で亡くなってしまったため、次には923年に穏子が産んだ保明親王の弟で第十一皇子の寛明親王(後の朱雀天皇)が926年に立太子されたのだそうですが、相次いだ皇太子の死は菅原道真の祟りによるものとの風評が立ったため、醍醐天皇は道真を右大臣に戻して正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄したのだそうです。
それにも係わらず道真の祟りとされる天変地異は収まらず(それらは道真の祟りせいなどではないのですから当然なのですが)、930年に清涼殿が落雷によって炎上するに及んで醍醐天皇は病に臥し、寛明親王に譲位してその七日後に亡くなったのだそうです。これも道真の祟りということになっているようですが全くの濡れ衣ですよね<(_ _)>。
930年に醍醐天皇に譲位された第十一皇子の寛明(ゆたあきら)親王(朱雀天皇)は923年生まれですから、この時まだ7才だったのです。7才の子供が欲まみれの大人たちの上に立って政治などできたはずはありませんから、この天皇もこの時摂関となっていた伯父・藤原忠平の傀儡だったのでしょうね(T_T)。
常識的に考えれば7、8才の子供に政治ができたはずはありませんし、1才や2才の皇太子に天皇の補佐や代理が務められたはずもありませんから、この時代の「天皇」とは、藤原氏内部の権力闘争の勝者が権力をほしいままにして私利私欲を満たすための「権威」として利用するために立てたものであり、「皇太子」とは次の代にも引き続きその権利を確保しておくためにやはり藤原氏が立てたものだったようです(T_T)。
天皇が「実権のない象徴」であるのは、戦後に始まったことではなく、686年に不比等が実権を握って以来、ずっとそうだったのですね。藤原氏が失速した後実権を握ったのは、天皇ではなく武家政権だったのですし。
けれど藤原氏は、武士の時代になっても五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)としてずっと天皇家に娘を入れて「天皇の権威」を利用し続け、さらに将軍家の御台所にも娘を送り込み続けて、「将軍の権威や威光」も利用し、実利もしっかりと得続けていたようで、慶応元年の段階で近衛家2862.8石、九条・一条両家2044石、二条家1708.8石、鷹司家1500石の家領・家禄が与えられていて、他の堂上家よりも経済的に厚遇を受けていたそうです。
そして明治維新後は、各家の当主は公爵に叙せられ、将来の皇后になる皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)は、皇族もしくは旧摂家の女子に限るということが不文律になっていたのだそうです。