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穂高神社と安曇野152 安曇族(海人族)90 「中宮」

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2016.12.15 穂高神社と安曇野152 安曇族(海人族)90 「中宮」

 

天武天皇の時代までは、たくさんいたお后と皇子達のうちで正妃は皇后であり、皇太子になれるのは皇后の産んだ皇子だったのですが、天武天皇が亡くなった後実権を握った不比等が、天武の妻(持統天皇)、草壁の妻(元明天皇)、草壁の娘(元正天皇)を名目上の天皇にしたため、この間は皇后は不在だったわけですね。

 

そのあと平安時代になると、何故か「皇后」は「中宮」と呼び方が変わってしまったようです。光仁天皇のお后は井上皇后となっていましたから、この頃はまだ「皇后」だったようなのですが。

 

「中宮」とは、本来は「皇后の住居」のことで、平安時代にはそこに住む皇后が「中宮」と呼ばれるようになったのだそうですが、皇太子の住居は「東宮」で、皇太子は「東宮」と呼ばれていますから、この頃は、住んでいる建物の名前で呼ぶようになっていたということでしょうか。そういえば『源氏物語』では、お后たちは「麗景殿の女御」、「.弘徽殿の女御」、「桐壺の更衣」などと建物の名前と身分で呼ばれていましたが(^o^)

 

源氏物語のころの内裏の図


イメージ 1

 

「中宮」という名前の御殿はないようですから、皇后の住んでいる御殿が「中宮」になり、そこに住んでいる人も「中宮」と呼ばれたということなのでしょうか???

 

建物の名前で呼ぶようになったのは、飛鳥時代までのように天皇になった人の住んでいる所が御所になったのではなく、「京都御所」という恒久的な御所が造られて、天皇になった人がその御所に入るようになったからかもしれませんね。

 

ところで、学者さんたちは誰も疑問を持たないようなのですが、『記紀』は仲哀天皇の妻の神功皇后を始めとして、天武の妻・天皇にはなっていない草壁の妻・草壁の娘・舒明の妻(斉明・皇極)、はては舒明の妻の弟(孝徳)まで天皇になったと記しているのです。そうであれば、天皇の血を引く直系の男子ではない皇后でも、皇后の弟でも、天皇になっていない皇子の妻や娘でも天皇になれたということになりますが、もしそれが事実であったなら、皇后の弟が天皇になって他所から妻を迎えたり、皇子の娘が天皇になって他所から夫を迎えたりすれば、皇統は「天壌無窮の神勅」とは全く関係ない血統に移って行ってしまうことになりますよね。

 

そうはならないように、未来永劫直系の子孫が天皇でいられるようにと創ったのが「天壌無窮の神勅」の神話なのですから、それはあり得ないはずです。天皇の妻や妻の弟が天皇になったというのはウソだろうと私は考えたのですが、学者さんたちはそれらは全て事実で「つなぎだとすればよい」と考えているようです(^_-)

 

閑話休題。


基経は、阿衡事件の後で強引に入内させた娘の温子を中宮(=皇后)に立て、宇多天皇の第一子の敦仁親王をその娘の猶子にして「皇后の第一皇子」に仕立てて皇太子にしたわけですから、「皇太子は皇后が生んだ第一皇子」という原則を破る強引な離れ業を使ったわけですが、その力業が通ってしまったのを見ると、天皇を傀儡にしていた実力者の基経には誰も異を唱えることはできなかったということでしょうか<(_ _)>


そもそも宇多天皇自身が、「一度臣籍降下した者は皇位に就くことはできない」という原則を破った基経の力業によって天皇になっていたわけですしね。

 
 
 

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