2016.12.1 穂高神社と安曇野141 安曇族(海人族)79 在原業平4
藤原北家の良房は、承和の変で仁明天皇の皇太子だった恒貞親王を廃太子にすると、自分の甥の道康親王を皇太子に立て、道康親王は嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位を受けて天皇(文徳天皇)に即位しました。
良房は、文徳天皇が東宮の頃に娘の明子(あきらけいこ)を入内させており、明子がこの年の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産むと、文徳天皇の意に反してその11月には自分の孫の惟仁親王を生後8か月で立太子してしまいました。不比等が娘の光明子の産んだ自分の孫の基王を、生後わずか32日で立太子してしまったのと全く同じ強引なやり方ですね<(_ _)>。
この時は基王が夭折してしまい、その後光明子には皇子が生まれなかったので不比等は孫を天皇にすることができなかったのですが、藤原氏以外の氏族が外戚になることを阻止するために、県犬養広刀自を母とする聖武天皇の第二皇子・安積親王を毒殺してしまったようです<(_ _)>。
紀静子を母とする第一皇子の惟高親王を皇太子にと考えていた文徳天皇は、この藤原氏の強引なやり方に抵抗し、大内裏の東部にある東宮雅院や嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して遂に一度も内裏正殿に居住することはなかったのだそうですが、この確執の中で天安2年(858年)8月に文徳天皇が発病後4日で急死してしまったため、この死に関しては藤原良房による暗殺説があるそうです。
言いなりにはならない文徳天皇が排除され、代わりにまだ9才の子供だった良房の孫の惟仁親王(清和天皇)が即位したのですから、ここまでの藤原氏のやり方を見れば、この時31才だった文徳天皇が都合よく死んでしまったと考えるより暗殺されたと考える方が自然なようです(T_T)。
基王が亡くなった後、聖武天皇の唯一の皇子だった安積親王は、17才で突然脚気になり発病2日後に都合よく死んでしまったようですし、天武天皇の皇子達もみな20代で都合よく死んでしまったようですしね。
この時代には天皇の在位期間が短いうえに天皇が自分の子ではない皇子を皇太子にしていることが多いのはなぜだろう?廃太子がこの時代にだけたくさんいるのはなぜだろう?と疑問に思ったのですが、天武天皇が686年に死去して不比等が実権を握って以降、朝廷で実権を握り続けていたのは藤原氏であり、皇太子を選んで天皇を傀儡とし、意に沿わなければ廃太子にしたり殺してしまったりということを繰り返していたということのようですね<(_ _)>。