2016.11.26 穂高神社と安曇野137 安曇族(海人族)75 『大鏡』
皇位には程遠い所にいた崇神天皇の子孫の白壁王は、天武天皇の子孫やその支持者たちを次々に殺した藤原氏に担ぎ出されて皇位に就いて光仁天皇となり、その息子の山部王(桓武天皇)は、王族としては天武天皇の最後の子孫だった他戸親王を藤原氏が陰謀によって陥れ、廃太子にしたうえで殺してしまったことによって皇太子になり皇位に就くことができたのですが、この光仁天皇の即位以降は、天皇位を巡ってずっと陰謀の繰り返しだったようです<(_ _)>。
陰謀によって前王や太子(世子)を陥れたり、毒殺したり、暗殺したりして自分達が推す王族を王位に就かせ、それをタネに貴族が自分の娘を王妃にすることを迫ったり、自分達に都合の良い命令を出させたりするシーンが韓国歴史ドラマにはいやというほど繰り返し出てきましたが、藤原の娘たちを皇后や中宮にすることを迫られていた光仁天皇以降の天皇家も同じような状況だったようですね(T_T)。この時代の天皇位は、自民党の安藤裕議員が国会で述べたような「天壌無窮の神勅」に由来するものではなく、藤原氏の意向によって決まっていたようです<(_ _)>。
この時代には他戸親王、早良親王、伊予親王、高丘親王、恒貞親王など廃太子とされ、殺されたり自害させられたりした親王がたくさんいたようですが、みな藤原氏の権力争いの犠牲になった人達だったようです(T_T)。
平安京が怨霊だらけになり、夜な夜な都をさまよう百鬼が長い長~い行列になったわけですよね<(_ _)>。『大鏡』が「これらは藤原氏を恨んで死んだ人達の行列でその先頭にいたのは蘇我入鹿だった」と記したのは、やはり『大鏡』の作者はその陰謀と殺戮の歴史と、その始まりは崇神天皇の子孫の中大兄皇子が応神天皇の子孫の蘇我入鹿(石川麻呂)を殺して王位を奪った「クーデター・乙巳の変(「大化の改新」と騙られている)」であったことを知っていたということなのでしょうね。
ところで、私は文献の類いは読んだことがなくて『大鏡』も名前しか知らなかったのですが、昨日図書館に行ったら漫画になっているものがあったので借りてみました(^o^)。漫画や小説の方が、学者さんたちのもっともらしいつじつま合わせよりはるかに分かり易いし面白いので(^o^)。
ところがよく見てみたら、借りてきたのは『大鏡』ではなく『吾妻鏡』でした(^_^.)。間違ってしまったけれど、こちらも名前しか知らなかったから読んでみることにしましょう。
先日は「曽我兄弟」って何だっけ?とたまたま家にあった『曽我兄弟の密命』を読んでみたら、鎌倉時代(武士の時代)への移行期の状況や寺院や僧がどういう存在だったのかなどがよく分かりましたが、このオハナシが語り継がれてきたのは、やはり単に「親の仇を討ちました」というような個人的なオハナシではなかったからのようです。