2016.11.27 穂高神社と安曇野138 安曇族(海人族)76 菅原道真
この式家を潰した「薬子の変」以降、不比等の次男・房前を祖とする藤原北家が権力の頂点に立って娘を天皇家に入れ続け、外戚と摂政・関白の地位を独占するようになって「この世をば わが世とぞ思う・・・・」と豪語するような北家全盛の時代になったのです。
そして、そのようにして手に入れた権力の座を守るための陰謀が繰り返され、怨霊や百鬼夜行に加わる「藤原氏を恨んで死んでいった人たち」はますます増えていった訳ですね(T_T)。
左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ左遷されて現地で没した菅原道真は「怨霊になって朝廷に祟った」とされていますが、道真は宇多天皇・醍醐天皇に重用されたために藤原氏に陥れられ排斥されたのですから、もし祟ったとすれば「朝廷に」ではなく「藤原氏に」でしょう。道真の残した歌や漢詩には「天皇の朝廷」への恨みを感じさせるものなど一つもないのです。
もちろん道真は怨霊になどなっていませんが、この「朝廷に祟った」という表現を見ると、この朝廷とは藤原氏のことのようですね。朝廷を動かしているのは自分達(藤原氏)だから朝廷とは自分達のことだと日ごろ思っていたということなのでしょう。最近自民党議員の「失言」とされるものが相次いでいますが、これらは「何の脈絡もなく口をついて出てしまった失言」ではなく、日ごろ考えていることが言葉の端々に現れてしまったということだろうと私は思います。
彼らが「(藤原氏の)朝廷が祟られた」と記したということは、自分たちが道真に対してしたことは、そのような祟りや報復を受けても当然のひどいことなのだと自覚していたということなのでしょうね。
在原業平の「東下り」は有名ですが、菅原道真の息子も東下りをしていたようです。道真を祀る国立市の谷保天満宮は、道真の三男の道武が父を祀る廟を建てたことに始まると伝えられていて、城山には道武の居館があったことが「江戸名所図絵に記されているそうです。
谷保天満宮