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穂高神社と安曇野133 安曇族(海人族)71 伊予親王2

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2016.11.21 穂高神社と安曇野133 安曇族(海人族)71 伊予親王2

 

伊予親王母子が自害させられた謀反事件は、冤罪であり無実であったことが後にはっきりしたそうですが、この事件を時系列で追ってみたら事件の背景が見えてきました。これは娘の乙牟漏を桓武天皇の皇后にし、孫の安殿親王を皇太子にすることに成功していた宇合の子孫の藤原式家が武智麻呂の子孫の南家に仕掛けた謀略だったようです。

 

皇后:藤原乙牟漏(式家)

  ||――安殿親王(平城天皇)・神野親王(嵯峨天皇)

桓武天皇

  ||――伊予親王

夫人:藤原吉子(南家)

 

774 藤原乙牟漏、安殿親王(後の平城天皇)を出産

781 山部親王(桓武天皇)即位

   式家の藤原種継、桓武天皇の即位に伴い従四位上に昇叙 

783 藤原乙牟漏、皇后になる

783 藤原吉子、伊予親王を出産

785 安殿親王立太子

786 藤原乙牟漏、神野親王(後の嵯峨天皇)を出産

789 藤原乙牟漏、高志内親王を出産

790 藤原乙牟漏、死去 

807 藤原吉子と伊予親王母子、式家の仲成と北家(房前の子孫)の
  宗成によって謀反の嫌疑をかけられて川原寺(弘福寺)に幽
  閉され、毒を飲んで自害する
 

井上内親王と他戸親王を陥れて自害させ、藤原氏が皇太子に擁立した高野新笠の子の山部親王には、式家と南家がそれぞれに娘を入れており、山部親王が即位すると774年に先に第一皇子の安殿親王(後の平城天皇)を産んでいだ式家の藤原良継の娘の乙牟漏が783年に皇后になっています。この乙牟漏は続いて786年に神野親王(後の嵯峨天皇)、789年には高志内親王を産んだのですが、790年に30才で亡くなってしまいました。

 

南家の藤原是公の娘の藤原吉子は、783年に伊予親王を産みましたが、この伊予親王は桓武天皇から深い寵愛を受けていたのだそうです。桓武天皇の第二皇子として皇后以外の女性から生まれた伊予親王は、『源氏物語』の桐壺帝の第二皇子として皇后候補以外の女性から生まれた光源氏のように兄をしのぐ出来のいい子だったのかもしれませんね。

 

785年には式家の良継の孫の安殿親王がすでに皇太子になっていたのですが、790年に母で皇后の乙牟漏が亡くなってしまったため、もし第二皇子を生んでいた南家の吉子が皇后になれば、吉子の息子の伊予親王が皇太子になってしまうのではないかと危惧した式家が、それを阻止するために吉子と伊予親王を陥れる謀略を仕組んだのではないでしょうか。

 

この事件は、北家の藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めたとされているようですが、宗成は式家の藤原仲成・薬子兄妹に唆されたともいわれており、この事件の真相は不明なのだそうです。

 

事件の推理では、そのことによって最も利を得たのは誰か?と考えるのが常石のようですが(^_-)、この事件の直後に薬子の官位は従五位相当から従三位に引き上げられたそうですし、式家の薬子が自分の娘を入れていた安殿親王はこのことで無事に即位することができたわけですよね。

 
 

川の博物館

 

いつまでも靄が晴れないので鹿島古墳群は諦めて川の博物館へ行ってみたのですが、ここには荒川の源流から現在の河口までの173kmを縮小して展示した立体模型がありました。

 
イメージ 1

模型の上の方に写っているのが現在の荒川で、鹿島古墳群はこの下流のハケ上あります。その対岸が巨大ザメカルカロドン・メガロドンの歯の化石が出た場所なのですが、上流の秩父盆地は海だったのですから、そこより下流は当然海だったのです(^o^)

 

展望台から見た荒川

 
イメージ 2

 
イメージ 3

この河川敷も、古墳時代にはまだ海だったのかもしれません。 



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