2016.11.18 穂高神社と安曇野131 安曇族(海人族)69 百鬼夜行
井上内親王・早良親王・伊予親王はみな藤原氏の謀略によって無実の罪で命を落としたようですが、謀反をデッチ上げて密告させ、それを口実にして政敵を皆殺しにするというこの手口は、中大兄皇子が権力の座に就くために使い、不比等が天武の皇子たちを殺すのに繰り返し使った手と全く同じなので、私にはパターンに見えてしまったのですが(^_-)、このやり口は崇神系王族の伝統的な常套手段だったようです。
でもこれは、韓国歴史ドラマにはよく出てくるパターンなのですよね。どのドラマにも同じような陰謀が出てくるので、うんざりしながら「ああ、またか」と思っているうちに藤原氏のやっていたことも全く同じであることが見えてきてしまったのです。こんな理不尽で強引なやり方が何度でも通用していたのは、不比等が全ての権力を握って以降、意に沿わなければ全て殺してしまうという恐怖政治を敷いてきたからなのでしょうね<(_ _)>。
その藤原氏に対抗しようとした孝謙天皇(聖武天皇の娘の安倍内親王)を潰すために藤原4兄弟が仕組んだ「橘奈良麻呂の乱」では、反藤原と目された人々が一度に400人以上も粛清されたようです(T_T)。
そのようにして次々に政敵を排除して藤原氏が権力の頂点に立った平安時代は、平安どころか天変地異が続き、怨霊が跳梁し、百鬼夜行が跋扈する暗い時代だったようです<(_ _)>。自分たちの欲と権力のために次から次へと人を陥れて殺していたのですから、無実の罪で悲惨な殺され方をしたたくさんの人達が藤原氏を恨み、怨霊になってとり殺してやりたいと願ったとしても無理はありませんが、人間はもちろん怨霊になどなれませんし、怨霊が物理的な害や天変地異などを引き起こすこともありません。
「誰それの怨霊の祟りで・・・」と言うのは、その誰それに対して自分が祟られるようなひどいことをしたと告白しているのと同じですよね(^_-)。「語るに落ちる」です(^o^)。
そのことを如実に表しているのが、天暦10年(956)に藤原師輔が遭遇したという百鬼夜行の話でしょう。『大鏡』には、藤原師輔が遭遇した百鬼夜行は「蘇我入鹿を先頭に、蘇我馬子、蘇我倉山田石川麻呂、山背大兄王、大津皇子、山辺皇女など藤原氏を恨んで死んだ者たちの行列」だったと記されているそうです。
私は人の顔を覚えるのが苦手で、挨拶をされたときに「どなたでしたっけ?」と聞くわけにもいかずに困ることがよくあるので<(_ _)>、「百鬼夜行に遭遇したという藤原師輔がその大勢の行列に誰がいたのかをとっさに判別して個人名まで特定することができたのはすごい!」とピントのはずれた感想を持ったのですが(^o^)、よく考えてみると、真っ暗な夜に自分が生まれる前に死んだ大勢の人の行列を見て、それが誰かなど分かったはずはありませんよね(^_-)。
もし師輔がその人達の行列に遭ったと自分で話したのであれば、師輔は自分の一族が誰をどうやって殺したかを知っていたということなのでしょうし、この話が『大鏡』の作者の創作なのであれば、少なくても『大鏡』の作者はこの人達が藤原氏にどういう殺され方をしたのかを知っていたということなのでしょうね。
この時代の歴史は本当に気の滅入るようなことばかりで、気分転換が必要ですね(T_T)。
七輿山古墳は360度の見晴らしで、雪化粧した浅間山が見えていましたが、古墳の斜面にはなぜかたくさんのアザミの花が咲いていました(^o^)。