2016.11.15 穂高神社と安曇野128 安曇族(海人族)66 舎人親王
舎人親王(皇子)は、天武天皇の死去後に大津皇子が24才、草壁皇子が27才など若くして次々に藤原氏に殺されてしまった天武天皇の皇子達の中で、最後まで生き残り長寿を保った唯一の皇子なのだそうです。
天武天皇の子孫のうち、中央で生き残ることができたのは、臣籍降下して「真人」となった高市皇子の子孫の高階氏と、同じく清原氏となった舎人皇子の子孫だけだったようですが<(_ _)>、
舎人皇子は藤原全盛の世で生き残っただけではなく、「一品親王」という最高の身分と待遇を受け、その祖廟にも「正一位」という最高の位階を贈られていたのです。
舎人皇子は天武天皇の皇子ではありますが、その母は天智天皇の娘の新田部皇女で不比等の親族でもありましたから、それらの破格の身分や待遇は、舎人皇子が不比等に取り込まれ、藤原氏のために働く見返りとして与えられたものだったのではないでしょうか。
元正女帝から皇太子(後の聖武天皇)補佐に任じられ、不比等亡きあとは知太上官事に就任して兄・高市皇子の子である長屋王とともに皇親政治を担ったとされている舎人皇子ですが、藤原四兄弟の仕組んだ謀略「長屋王の変」では異母弟の新田部皇子とともに藤原氏の謀略に加担して長屋王を糾弾し、冤罪であることを知りながら「血統上、皇位に最も近い位置にいた長屋王」とその妃の吉備内親王とその息子達を自害に追い込み、不比等の娘で王族ではなかった四兄弟の妹の光明子の立后の勅を宣べたり、藤原四兄弟全員を議政官にするなど、藤原氏の権力確立のためにおおいに尽力していたようですから、学者さんたちが言うように「長屋王とともに皇親政治を担った」とは私には思えません。
この舎人皇子は天然痘の流行によって735年に藤原四兄弟とともに60歳で没したそうですが、死後には「太上大臣」を追贈され、七男の大炊王が藤原仲麻呂によって天皇(淳仁天皇)に擁立されるとさらに「崇道尽敬天皇」を追贈されています。藤原氏が全権力を握っていた時代なのですから、この破格の待遇や追贈は藤原氏の意向によるものであり論功行賞だったのではないでしょうか。
まるで韓国歴史ドラマそのままのようですが、実は、「後継争い・権力争い・派閥争い」とそのための陰謀や殺し合いばかりを描いている韓国歴史ドラマをうんざりしながら見ているうちに日本の古代史も全く同じだということが分かってきて、『記紀』が隠したものが見えるようになってきたために謎が解けてきたのです。
でも、謎は解けても気分は良くないのですよね~<(_ _)>。隠されていたものが見えて来るに従って気分がドヨ~ンとしてきて体調までおかしくなってくるのですが、今またそんな気分です(T_T)。そんなことを知りたかったわけではないのに、謎を解くと見えてくるのはロマンなどカケラもない、殺伐として目を背けたくなるような事実ばかりなので、「もう歴史の謎解きなんか止めてしまおう」と何度も思いました<(_ _)>。
藤原の毒気にあてられてドヨ~ンとしていると、「それは正体を暴かれたカミサマの祟りだ」なんて言われますしね~。今回の体調不良はお稲荷さんの祟りだと言われるのでしょうか(^_-)。
ところで昨日の梨の木の生えていた古墳は、藤岡市の白石古墳群にある古墳なのですが、以前は梨の木などなかったような気がしたので以前の写真を確かめてみたら、私が意識していなかっただけでちゃんと写っていました(^o^)。
2010年の写真
今回は、梨の木だけではなく、この二つの古墳の奥にもう二つ、小さな古墳があったことにも気が付きました。
この一帯は古墳公園として整備中だそうです。
ここからは巨大な白石稲荷山古墳も見えていました。