2016.11.14 穂高神社と安曇野127 安曇族(海人族)65 藤森神社3
最高位だという「正一位」ってどれくらいスゴイものなのか調べてみたら、関白や太政大臣、あるいは征夷大将軍として功労をなした者など、国家に対して著しい偉勲のあった人が叙されるもので、生前に叙された人はこれまでにたった6人しかいないそうですから、山頂の祠にも授けられるような軽いものではなかったようです(^_-)。
稲荷の祠に国家に対する偉勲などあるはずはなく、正一位どころか位階などには全く縁がなかったでしょうから、やはり「正一位」という最高位の位階を授けられていたのは、永享10(1438)年まで藤尾にあった藤尾大神を祀る神社だったのでしょう(^o^)。
それでは藤尾大神とは誰のことなのかというと、「藤尾の大神」なのですから、藤尾を領地としていた人であり、「正一位」を授けられていた神社は,その支配者が造った祖廟だったのだろうと思うのですが、藤尾から藤森に移されて現在藤森神社の本殿東殿(東座)に祀られているのは、舎人親王と天武天皇なのですから、藤尾の支配者とは舎人親王で、その舎人親王が祖廟に祀っていたのが父の天武天皇だったということではないでしょうか(^o^)。
すると現在伏見稲荷になっている藤尾の里は、一品親王に叙せられていた舎人親王の位田であり、一品親王の祖廟には「正一位」の神階が贈られていたということのようです。
この神階とは、祭神ではなく神社に対して与えられるものなのだそうです。だから藤尾大神が遷された藤森神社は「正一位」にはならず、山上から「正一位」の神社に入った稲荷が「正一位」になったということのようですね(^o^)。
どういういきさつがあったのかは分かりませんが、後花園天皇(在位1428~1464年)の時代は応仁の乱勃発前の後継争いや権力争いの激しかった時代のようですから、そういったものが絡んでいたのかもしれません<(_ _)>。
その間の権力闘争やら陰謀やら人間関係やらを想像して面白い歴史小説に仕立てる能力は残念ながら「古代史探偵・推古」の私には全くありませんので<(_ _)>、それは才能豊かな小説家や劇作家にお任せすることにしましょう(^_-)。
ともあれ藤尾の里の人々は、元々山頂にあったお稲荷さんとは何の関係もなく、麓の藤尾大神(舎人親王)の領民だったわけですね。藤尾大神は永享10(1438)年にここから二駅も先の藤森神社に遷されてしまいましたが、「伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社(藤森神社)の氏子である。」そうです。だから藤森神社の祭礼の日には伏見稲荷大社の周辺にも藤森神社の旗が連なっていたのですね。
これで4年前の、「伏見稲荷の周辺になぜ藤森神社祭礼の旗がぎっしり並んでいるのだろう?」という疑問がやっと解決しました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
やはり何事にもちゃんとそれなりの理由があるのです(^o^)。
ネコビタイ便り
ダイヤモンドリリーと皇帝ダリアが先週から咲きだしています。木枯1号も吹いたことですし、もうすっかり冬ですね。
昨日、古墳の上に梨の木が生えていて小さな実を大量に落としているのを見ました。木の上で鳥が実をつついていたので、どんな味がするのかな?と思ってちょっとかじってみたのですが、固くて酸味と渋みがあり、おいしくはありませんでした(^o^)。
古墳の上の梨の木
大量に落ちた実