2016.10.8 穂高神社と安曇野99 安曇族(海人族)37 ワカタケル王
歴史は因果関係であって、論理的にその因果を辿っていけば矛盾なく繋がっていくはずなのですが、学者さんたちが『記紀』のウソや作り話を信じて、そのつじつまを合わせるためだけの非論理的な解釈してきたために矛盾だらけで訳の分からないものになってしまっているのです<(_ _)>。
例えば、さきたま古墳群にある前方後円墳の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「ワカタケル王が辛亥の年にシキの宮にいて、オオヒコノミコトの子孫のヲワケ臣が補佐していた」ことが記されていて、この鉄剣が前方後円墳から出土したことから、この辛亥年は古墳時代の471年か531年であろうと推定されているのですが、学者さんたちの多くは、ワカタケル王は雄略天皇で辛亥の年は471年であると解釈しているのだそうです。
金錯銘鉄剣
なぜ多くの学者さんが辛亥年を471年だと解釈しているのかというと、『日本書紀』は、欽明天皇の宮は磯城(シキ)にあったと記しているのですが、その在位は539~571年としていますから、「531年の辛亥の年には欽明はまだ王位についていないのだから、このワカタケル王が欽明天皇のはずはない。辛亥の年に天皇だったのは471年に在位していた雄略天皇(在位456~479年)だから、この辛亥年は471年で、ワカタケル王とは雄略天皇のことである」という論理のようで、たしかにこの部分だけを見れば「論理的整合性があり妥当である」のですが、歴史は全体の流れであって「部分」ではないのです。
全体を論理的に見れば、464~506年に実際に倭国の王として在位していたのは、中国の史書に「倭王・武」の名で記されている応神天皇であって、456~479年に在位したとされている雄略天皇は架空の天皇なのですし、『日本書紀』は雄略天皇の宮は磯城ではなく、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)だと記しているのですから、上記の解釈は論理的でも妥当でもないのです(^o^)。
雄略天皇は歴代の天皇の系譜に記されていますし、宮内庁が「雄略天皇陵」としている陵墓もありますから、学者さんたちは雄略天皇の実在を全く疑っていないようですが、雄略天皇陵とされている古墳は円墳と方墳の二つの古墳をくっつけて前方後円墳に整形したものだそうですし、この古墳は宮内庁が天皇陵として囲い込んでいて一切調査はされていないため、いつ頃作られた古墳なのかも被葬者は誰なのかも分かっていないのですから、その陵墓の存在が雄略天皇の実在を証明しているわけではないのです。
それでは、雄略天皇の泊瀬朝倉宮はどこにあったとされているのだろう?と調べてみると、奈良県桜井市黒崎の白山神社境内に「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑があるそうですが、そこは奈良盆地の東側の端の山間の地で、強大な力を持っていたとされる大王が宮を置いた場所とは思えませんし、雄略天皇陵があるのは奈良盆地の西の端からさらに山を越えた大阪府羽曳野市なのですよね。
奈良盆地の東の端に宮を置いていたという天皇のお墓が、宮から遠く離れた山の向こうの大阪に造られたというのはあまりにも不自然すぎると私は思うのですが、歴史学者さんには、これは「論理的整合性があり妥当である」ことなのでしょうか???