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穂高神社と安曇野87 安曇族(海人族)25 穴穂部間人皇女

2016.9.24 穂高神社と安曇野87 安曇族(海人族)25 穴穂部間人皇女

 

架空の聖徳太子の生母とされている穴穂部間人皇女が実在した用明天皇の皇后でアメノタリシヒコの生母の鬼前太后だったのかどうか、穴穂部間人皇女について調べてみました。

 

穴穂部間人皇女は、

 
 ・欽明天皇の第三皇女

 ・埿部(はつかしべ)穴穂部皇女・穴太部間人王・孔部間人公王

 ・間人穴太部王などとも記され、法隆寺金堂釈迦三尊像の銘文

  には鬼前太后と記されている

 ・母は蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)

 ・用明天皇の皇后になり、厩戸皇子(聖徳太子)・来目皇子・

  殖栗皇子・茨田皇子を産んだ

 ・用明天皇崩御後は、用明天皇の第一皇子・田目皇子(多米王、 聖徳太子の異母兄)に嫁して佐富女王を生んだ

 

というようなことが記されていてこれらが定説になっているようですが、なんだか納得できないおかしな話ですね<(_ _)>

 

ここまで見てきたところでは、『記紀』にたくさんの別名で記されていて不自然なオハナシが作られている人は、架空の人物か本当の素性を隠されている人でしたが、この人もいろいろな名前で記されているようです(^_-)

 

この人の母は、蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)だそうですが、稲目は聖徳太子と同じ時代の人である馬子の父ということになっているのに、その稲目の娘で馬子の姉の小姉君が「同時代を生きた聖徳太子」の祖父の欽明天皇の妻になっていて聖徳太子の母を生んでいたというのは計算が合いませんよね(^o^)

 

実際はアメノタリシヒコ=聖徳太子=馬子なのですから、聖徳太子(アメノタリシヒコ)の父の用明天皇=馬子の父の稲目であり、その稲目の娘が間人皇女の母であったとすると、用明天皇は自分の娘が生んだ子を自分の皇后にしていたことになってしまいますから、欽明天皇の妻の小姉君や堅塩媛は実在したとしても、二人を稲目の娘だとする系譜はウソでしょう。

 

まるで「根の国へ行ったスサノオの6世孫の大国主が、スサノオの娘のスセリヒメを連れて逃げ妻にした」という『古事記』のオハナシと同じくらいに非論理的なおかしなオハナシだと思うのですが(^o^)、この「堅塩媛と小姉君は蘇我稲目の娘である」ということを頭から信じて「推古天皇は堅塩媛の娘だから馬子の姪で蘇我系である」というような「説」を書いている学者さんたちは、この時間的な矛盾のつじつまをどうやって合わせているのでしょうね?

 

『記紀』を信奉し、古代の天皇が100年以上も生きていたとか竹内宿禰は300年以上も生きていたというようなオハナシを信じているような方々は、人間の寿命のことなどは全く考えないようですから、矛盾などなにも感じていないのかもしれませんが(^_-)

 

また当時は「同腹の兄妹でなければ結婚できた」とされているようですが、それにしても欽明天皇の皇子の用明天皇が欽明天皇の第三皇女だった異母妹の間人皇女を皇后にし、やはり欽明天皇の皇子だった敏達天皇も異母妹の推古天皇を皇后にしていたというオハナシは不自然ですよね(^_-)。ここでも作り話には同じようなオハナシを使い回していたということでしょうか。

 

間人皇女は用明天皇が崩御した後、用明天皇の第一皇子の田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁したそうですが、皇后であって厩戸皇子(聖徳太子)を始め来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子など何人もの皇子を生んだ人の再婚など許されていたのでしょうか?その上その再婚相手が義理の息子だというのはあまりにも不自然すぎると思いませんか<(_ _)>

 

アメノタリシヒコは実在したのですから、その母の「鬼前太后」も当然実在した人のはずですが、この「穴穂部間人皇女」に関する系譜やオハナシは荒唐無稽な作り話のようです。

 

それでは、穴穂部間人皇女は架空の聖徳太子の母として創り出された架空の人物なのでしょうか?それとも実在したアメノタリシヒコの母の鬼前太后で、その出自や素性を隠すためにこのような荒唐無稽な系譜やオハナシが作られたのでしょうか?





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