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穂高神社と安曇野86 安曇族(海人族)24 鬼前太后

2016.9.23 穂高神社と安曇野86 安曇族(海人族)24 鬼前太后

 

現在の飛鳥寺は、かつての金堂一つ分にも満たない小さな寺院ですが、当時の飛鳥寺の建立は、百済の威徳王から送られてきた工人や仏師や露盤博士たちによって日本で初めての本格的な寺院を大王の都である飛鳥に造るという大事業だったのです。

 

現在の飛鳥寺

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建立当時の飛鳥寺の伽藍復元図

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 ところが、この国家的事業であった飛鳥寺の塔の心礎式が593年に行われた時、この記念すべき儀式に推古天皇や聖徳太子が臨席したという記録はなく、『扶桑略記』によればこの儀式に臨んだのは「百済の服を着、百済の髪型で百済服の百官を従えた蘇我馬子」だったそうです。
 

↑は2015.5.18に書いたもので、この時点では「577年に仏教に関するすべてのものを日本に送ったのは聖明王の息子の威徳王(在位554598)で、受け取ったのは欽明天皇の息子のアメノタリシヒコ(=馬子 在位5716??)だったということになります。」としていますが、その後の推理で『日本書紀』が30代天皇と記した敏達天皇は架空の天皇であり、571年に亡くなった欽明天皇(531571)の後を継いだのは欽明天皇の大兄皇子であった用明天皇(571585)で、用明天皇の後を継いだのがアメノタリシヒコ(=上宮太子=聖徳太子=蘇我馬子)(585622)だったことが分かりましたので、「577年に百済の威徳王が送って来た仏教に関するすべてのもの」を受け取ったのは用明天皇、その後『日本書紀』では「崇仏戦争」と騙られているクーデター「丁未(ていび)の乱」を経て588年に飛鳥寺の建立に着手したのがアメノタリシヒコ(=馬子)だったということになります。

 

「百済の王」が自分の王子たちのために建立した「王興寺(ワンフンサ)」を造り終えたばかりのチームを派遣した相手は、個人ではなく当然「日本の王」だったはずです。ところが、この飛鳥寺は推古天皇の宮があったとされている豊浦の眼と鼻の先に造られたにもかかわらず、学者さんたちがこの時日本の王だったとしている「推古天皇」も、その摂政だったとしている「聖徳太子」も心礎式に臨席していないのですから、これはやはり推古天皇も聖徳太子も実在の人ではなく、この時の本当の「日本の王」は、百官を従えてこの儀式に臨んだ馬子(=アメノタリシヒコ)だったということでしょう(^_-)

 

私は「鬼前太后」という名前を釈迦三尊像の銘文で初めて知ったのですが、天皇の系図では敏達天皇は欽明天皇と皇后の石姫の子となっていますから、アメノタリシヒコがその異母弟であったなら、アメノタリシヒコは欽明天皇のもう一人のお后で皇太夫人と記されている堅塩媛の子で、「鬼前太后」は堅塩媛の別名なのかな?とその時は考えました。『記紀』には別名がうんざりするほどたくさん出てきますから<(_ _)>

 

ところが、その後の推理で石姫は欽明天皇の皇后ではなく、敏達天皇は欽明天皇の子ではなかったこと、アメノタリシヒコは用明天皇の子であって、「欽明天皇の子で敏達天皇の異母弟」ではなかったことが分かりました。

 

ということは、釈迦三尊像の銘文にある上宮法皇(=アメノタリシヒコ)の母の「鬼前太后」は欽明天皇の皇后ではなく、用明天皇の皇后のことになるわけですが、それはいったい誰のことなのでしょう?

 

天皇の系図では、用明天皇の皇后は「穴穂部間人皇女」でこの人は架空の聖徳太子の生母だということになっているのですが、穴穂部間人皇女が実在の用明天皇の皇后であり、アメノタリシヒコの生母で、「鬼前太后」と記されている人だったのでしょうか?

 

それとも、アメノタリシヒコがその名前も存在も「聖徳太子や馬子」として『日本書紀』では完全に隠されてきたように、用明天皇の本当の皇后もその名前や存在が「聖徳太子の母の穴穂部間人皇女」として完全に隠されてしまっているのでしょうか?

 

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