2016.9.8 穂高神社と安曇野73 安曇族(海人族)11
『日本書紀』が記した「神武天皇の妻問いの使者に立った安曇目の大久米命」とは、実際は崇神天皇の時代に反乱に加担して眼の縁に入れ墨をされたという安曇連浜子なのではないか?と考えていて、『古事記』の「神武の東征」に久米歌が記されていたことを思い出しました(^o^)。
そこで改めて大久米命について調べてみると、大久米命は天孫降臨の時に天孫を先導した天槵津大来目(あめのくしつのおおくめ)の子孫で、神武の東征の時には大伴連等の祖である道臣命(みちのおみのみこと)と共に兄宇迦斯(えうかし)を討ったのだそうです。
でも「神代の天孫降臨」も「紀元前の神武の東征」もウソで、実際の東征(国譲り)は4~5世紀ですから、「天孫降臨の時の天槵津大来目」とは崇神の時代の大久米命本人のことで、大久米命は崇神の東征の時にヤマトを攻めた天津族の軍の中にいたということだろうと思います(^o^)。海人族は紀元前5世紀頃から北九州にいて、東征以前の天津族の九州王朝時代からすでに天津族の朝廷の中に入っていたようですから(^o^)。
『古事記』の神武のヤマト攻めの場面には、戦で久米部(くめべ)が歌ったという「撃ちてし止まむ」の句で結ばれる歌など6首の久米歌が記されていたのですが、ナガスネヒコとの戦いの時に歌ったという
みつみつし 久米の子等が 粟生(あはふ)には 臭韮(かみら)一茎(ひともと)そ根が茎(もと)そ根芽(ねめ)繋ぎて 撃ちてしやまむ
みつみつし 久米の子等が 垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ) 口疼(ひび)く 我は忘れじ 撃ちてしやまむ
神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)には 這ひもとほろふ 細螺(しただみ)の い這ひもとほり 撃ちてしやまむ
の3首などは「やっつけずにおくものか」という歌ですし、忍坂で歌ったという歌は「土蜘蛛を皆殺しにしよう」という歌ですから、海人族の大久米命とその兵士たちは勇猛で好戦的な人達だったようです。
この東征で手柄を立てた大久米命は、神武天皇即位後に論功賞として畝傍山の西の川辺の来目邑を賜ったそうなので、それはどこのことなのだろう?と地図で畝傍山の周辺を調べてみたら、畝傍山の南側に「久米」「久米河原東」の信号があって久米寺と久米御県神社があることが分かりました。
畝傍山の西ではなく南なので方向が少し違うのですが、近くには川も流れていますから、現在は「橿原市久米町」となっているこの辺りが4~5世紀には「川辺の来目邑」だった所でしょうか?
そこで久米町にある久米寺なら、それは久米氏の氏寺だったのではないか?と考えて久米寺を調べてみると、この寺は久米仙人の説話が残る古刹で、推古天皇2年に聖徳太子の弟の来目皇子が創建したと伝えられており、この地は「久米部の武人の住んだ地」だったと言われているそうです。
それでは、東征での論功行賞として大久米命が賜った「川辺の来目邑」とは、やはり畝傍山の南の、現在は「橿原市久米町」となっているこの一帯だったようですね(^o^)。
橿原は博物館に行っただけでほとんど知らないので、明日香で購入した航空写真の地図を見てみたら、一番端に久米寺が写っていました。この写真は左が北で右が南になっています。久米寺の右(南)にある緑の杜が久米御県神社のようです。