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穂高神社と安曇野70 安曇族(海人族)8

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2016.9.5 穂高神社と安曇野70 安曇族(海人族)8

 

三輪山の大神神社の祭神は、表向きは「大物主神」とされているのですが、本や資料には全て「大神神社には本殿がなく御神体である三輪山を祀っている」と記されていますから、この神社の神職さんたちが祀っているのは「大物主神」ではなく三輪山のようです(^o^)

 

でも『古事記』には、崇神天皇がわざわざ子孫のオオタタネコを捜し出してきて三輪の神を祀らせたと書いてあるのですけれどね~。それではオオタタネコは山の子孫だということなのでしょうか(^_-)

 

けれど、梅原猛著『古事記』(現代語訳)によれば、捜し出されたオオタタネコは、崇神天皇の「おまえは誰の子か?」という問いに「わたしは、大物主神の子孫で建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子のオオタタネコというものです」と答えたのだそうですよ。(三輪山の子孫ではなくて)事代主とタマヨリヒメの子孫だと答えたわけですね(^o^)

 

オオタタネコは、「大物主神―櫛御方命―飯肩巣見命―建甕槌命―意富多多泥古(オオタタネコ)」だとその系譜を述べたのだそうですが、実際は崇神と事代主(=大物主神=ヤタガラス)は大国主を滅ぼすために手を組んだ同時代の人だったのですから、その崇神天皇の時代に召し出されたことになっている意富多多泥古(オオタタネコ)が事代主の4世の子孫のはずはありませんよね。年代的には事代主の孫の一人だったのではないでしょうか。オオタタネコが述べ立てたという系譜でも(イスズヒメの息子の)タケミカヅチの子となっていますしね(^_-)

 

タケミカヅチがイスズヒメの息子であることについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第13章とその最後に入れた人物関係図をご参照ください。

 

私は、出かける前に「大神神社には本殿がなく御神体である三輪山を祀っている」という説明を読んで、「大和国一の宮」なのに、なぜこの神社は祭神ではなく山を祀っているのだろう?と不思議に思ったのですが、実際に行ってみたら、三輪山を祀っているはずの大神神社の拝殿は、参拝者が山頂の方に手を合わせるような向きには造られていませんでした。これまでそのことを疑問に思った人は誰もいなかったのでしょうか?

 

「山が御神体」だと言えば、諏訪神社も、祭神は「タケミナカタ」と記されているのに本殿は無く、神社が祀っているのは「守矢山」だと説明されていましたが、こちらも行ってみたら拝殿は「守矢山」の方ではなく、90°ずれた方向を向いて造られていました(^_^.)

 

守矢山のある南ではなく、東を向いて参拝する諏訪大社・本宮の拝殿

イメージ 1

 
イメージ 2


上の山が守屋山ですが、中央の拝殿は左を向いて参拝するようになっています。

拝殿が山頂の方を向くように造られていないのですから、大神神社も諏訪大社・本宮も「御神体の山」を祀るために造られたものであるはずがありませんよね(^_-)。これもアカデミックな学者さんたちによる全く根拠のない「・・・と考えてよい」というつじつま合わせの「説」の一つだろうと私は思います(^_-)

 

大神神社の表向きの祭神が「大物主神」となっているのは、『古事記』が「名負いの氏」である大物主神の子孫を捜し出して祀らせたと記しているのだから、祀られているのは祖先の「大物主神」のはずだという論理かな?と思うのですが、「山が御神体で山を祀っているのだ」という説は、いったい何を根拠に誰が言いだしたのでしょう?多くの人がそう信じて疑わないのを見ると、この説を言いだしたのもよほど立派な肩書きをお持ちの学者さんだったのでしょうね(^_-)

 

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