2016.8.25 穂高神社と安曇野61 海の正倉院と海人族3
図録を見ると学者さんたちは、沖ノ島にあった夥しい宝物は大和朝廷から宗像大神に奉献されたもので祭祀に使われたと考えているようですが、それは、『記紀』信仰と沖ノ島は御神体であるという「理論負荷性のフィルター」がかかった見方なのではないでしょうか(^_-)。
この図録にある宝物は宗像大社の宝物館にあるのですから、一木一草も持ち出してはならないはずの「御神体の島」から持ち出されたということですよね。それではこれを島から持ち出し、報告書を作って口外した調査隊の方々はみんな神罰を受けてしまったのでしょうか?そんなことはありませんよね(^_-)。それなのに学者さんたちは「この島はカミサマなのだ」という眼に張り付いたウロコはそのままのようで、そのウロコのフィルターを通してしかものを見ることも考えることもできないようです(^o^)。
けれど、そういった宝物に価値をおいて欲しがるのは、御神体の島や天にいるというカミサマではなく、ニンゲンなのではありませんか(^o^)?それに大和朝廷は、どこからどうやって宗像大神に奉献したという大量の舶載品を入手していたというのでしょうね?学者さんたちの言う「この夥しい宝物は祭祀のために大和朝廷から宗像大神に奉献された」という「説」の根拠はどこにあるのでしょう?
論理的に考えるならこれは全く逆で、紀元前から活発に海外貿易をしていた海人族の宗像氏が、大和朝廷の王族や貴族に沖ノ島に隠してあるそれらの珍しい品々を少しずつ贈ることで天津族の支配層の中に足がかりを作り、朝廷で大きな力を持っていったということなのではないでしょうか(^_-)。
もしもこれらの宝物をたくさん持っていることを知られてしまったり、自宅に置いておいたりしたら、「見まほし」の一言で全部召し上げられてしまったでしょうから、沖ノ島に隠しておいて「島に近づいてはならないし、島のことはいっさい口外してはならない」ということにしておいたのでしょう(^_-)。
図録によれば、沖ノ島の4~5世紀の遺跡から出た漢や魏の時代の鏡や碧玉製腕輪、鉄製の武器や工具などは、4~5世紀の古墳の副葬品と内容を等しくしており、沖ノ島の5~7世紀の遺跡から出た鏡、装身具、馬具などは後期古墳の副葬品と同じ性格を持っているのだそうです。
碧玉製釧 前期古墳に多く副葬されているそうです
勾玉や管玉やガラス玉もい~っぱい!
「尼子」は「海人子」でしょうか。これは本名ではなく、海人族の出身であることを示す名前なのかもしれません。この時代には出自や血統が支配層であるための何よりも大事な根拠だったのですし、女性の名前が記録に残されることはなかったようですから。例えば、『源氏物語』でも登場するたくさんの女性たちの名前は一つも記されてはいないのですよね。
「大海人皇子」という『記紀』が記した名前についてもいろいろな説や解釈があるようですが、この名前も、この皇子と海人族の関係を示すために作られた名前なのかもしれません。この皇子は、応神系の大王だった蘇我倉麻呂と宝皇女(この人は天皇の娘ではなかったので、王族ではあっても本当は皇女ではないのですが)の間に生まれた子で、他では「漢皇子(あやのみこ)」と記されていますから、「大海人皇子」は『日本書紀』が作った「壬申の乱」のオハナシの登場人物としての名前のようです。