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 コメントへのお返事の補足

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2016.8.12 コメントへのお返事の補足

 

[ 通りすがり ]さまのコメント

蘇我氏の祖先に蘇我韓子がいますが、母が三韓の出自であることを示す名と推測出来ます。韓皇子も母が三韓の出自である皇子と推測することも出来るでしょう。

ここで、百済王族の日本との姻族関係に注目すると、百済王家の身分が非常に低いことが、判ります。特別な厚遇でも畿内中豪族の婿とされるのがせいぜい。畿内や地方の大豪族から嫁取りが出来るような身分ではありません。婿取りも蘇我氏のような新興畿内大豪族を婿とするのが精一杯。百済王家は皇族に后妃を差し出して姻族関係を結べるような身分では無かった訳です。

確認出来る唯一の例外である桓武天皇御母にも贈皇后はありません。

もしも、百済王族女性を母とする韓皇子が即位したとしたら、母方の身分が低いことを隠蔽する必要があったでしょうね。


 

8.11のお返事

豪族・蘇我氏は『記紀』の騙りであって、蘇我韓子は架空の人物です。蘇我馬子は欽明天皇の皇子のアメノタリシヒコ、蘇我蝦夷はその皇子の高向王(たこうおう)蘇我倉麻呂(本名ではなく『記紀』の創った仮名ですが)、蘇我入鹿はその皇子の蘇我倉山田石川麻呂(同じく『記紀』の創った仮名)なのです。『記紀』が豪族・蘇我氏として隠した三代の蘇我氏は、571649年の間の応神系の三代の天皇(当時は「天皇」という言葉はまだ無く「大王(おおきみ)」ですが)であって、その祖先は韓子ではなく応神天皇で、応神天皇は百済の21代蓋鹵王(余慶455475)の弟の余昆(昆支440506)です。「韓子」が示唆しているのは、「母が三韓の出自であること」ではなく、応神天皇が百済から渡来したということでしょう。このことについて詳しくは「古代の地形から『記紀』の謎を解く」のと本文と「おわりに」の年表をご参照ください。2011年以降2016年までに判明したことについては、このブログの中にしかなく、本には載っていないのですが。

 

以下に補足します。

 

昨夜のコメントに書いた「百済の21代蓋鹵王(余慶455475))の455475年は蓋鹵王の在位年でした。蓋鹵王の生年ははっきり分からないようです。余昆は「蓋鹵王の弟」とされているものと「蓋鹵王の子」とされているものがあるのですが、可能性としてはどちらもありそうですね。

 

蓋鹵王は、先代の20代毗有王(ひゆうおう・余毗)の長子で、『三国史記』では「近蓋婁王」とも記され、『日本書紀』では「加須利君(かすりのきみ))、『宋書』では余慶などと記されているそうです。

 

[ 通りすがり ]さまがお書きになっていた「百済王家の身分は非常に低かった」ということの意味が私はよく分からなかったのですが、「百済王家」というのは「百済の王家」のことではなく、「百済王(くだらのこにきし)家」のことでしょうか?身分制度は、王族が自分たちを最高の身分とするために自分たちで作り上げたものなのですから、「王家」や「王族」の身分が非常に低いなどということはあり得ません。

 

[ 通りすがり ]さまは、「百済の歴代の王家」と百済滅亡後の王族のカバネとなった「百済王(くだらのこにきし)家」を混同していらっしゃるのではないでしょうか?

 

高向王・倉麻呂の子で、石川麻呂の異母兄弟であった「あやのみこ」の表記は「韓皇子」ではなく「漢皇子」ですが、そもそも天皇の子ではない男子が「皇子」を名乗れるはずはなく、公式文書に「皇子」と記載されることもあり得ませんから「漢皇子」の父の高向王・倉麻呂は天皇だったということなのです(^o^)

 

さらに、漢皇子の母は、後に重祚して二度も天皇になったと『日本書紀』が記している宝皇女ですから身分の低い女性ではありません。「宝皇女が二度も天皇になった」ということ自体は『日本書紀』の騙りで事実ではありませんが(^_-)

 

「百済王(くだらのこにきし)」は、唐・新羅連合軍に攻められて660年に滅亡した百済の最後の王である31代義慈王(在位641660)の王子で、当時日本にいた余豊璋と余善光の兄弟のうち、百済再興のために軍と共に百済に送られた兄の余豊璋が敗れて663年に百済が完全に滅亡した後、日本に残っていた弟の余善光に朝廷から与えられた「カバネ」です。

 

なお、やはり滅亡して日本に亡命していた高句麗の王族・若光には「高麗王(こまのこにきし)」のカバネが与えられ「高麗王若光」になっています。

 

高麗王(こまのこにきし)若光を祀る廟

 
イメージ 1

イメージ 2


若光は高句麗の王になったことはありませんから、「高麗王」はカバネであって、「高(句)麗の王・若光」ではないのです。

桓武天皇の母となった高野新笠も、桓武天皇の女官だった百済王明信(くだらのこにきし みょうしん)も、その祖父で陸奥守になっていた百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)も、みな義慈王の王子だった余善光の子孫であって百済の王族として朝廷で高官の待遇を受けていますから、「百済王(くだらのこにきし)」家の身分が非常に低かったということもありません



 

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