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Channel: 歴史探訪
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牛方宿

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2016.5.31 牛方宿

 

千国番所の前を通って牛方宿へ向かう道が本当の塩の道であることが分かったので、その道を牛方宿へ向かうことにしました。

 

牛方宿

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塩倉

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千国番所からここまでの間にも往時の「塩の道」を偲ばせる様々な痕跡があり、牛方宿の先には、茶店になっている民家の手前を左に曲がっていく昔の「塩の道」もあったのですが、残念ながら歩いてみる時間はなかったので(T_T)、車の道で栂池高原まで行ってみてから148号線に戻りました。雪のない季節で、重い塩の荷を背負っているのでなければ、この道は雪の残る北アルプスの山々を望むとても気持ちの良い道のようなのですが・・・・

 

牛方とは、牛を使って荷を運んでいた人のことで、一人前の牛方は6頭の牛を使って荷を運んでいたのだそうです。

 

牛方宿とはその牛方と牛が一緒に泊まれる宿のことで、牛は土間に、牛方は二階に泊まれるようになっていたそうで、この建物は千国街道で唯一現存する牛方宿の建物だそうです。

 

「塩の道」は険しい山道だったので、馬より踏ん張りのきく牛を使っていたのだそうですが、雪の積もる冬には牛を使えないので、11月末から5月初めまでの半年間は歩荷(ぼっか)と呼ばれる人たちが背負子で11俵の塩を背負って運んでいたのだそうです。牛は1頭が2俵運べるので、1人の牛方が1度に12俵を運べたわけですが、冬の間は1人1俵ずつしか運べなかったわけですね。牛方も歩荷も近隣の農民だったそうです。

 

塩一俵は約47kgで、糸魚川から松本城下までは120kmあったそうですから、厳冬の雪深い険しい山道を、50 kg近い荷を背負ってカンジキを履いて歩いて行くのは、さぞかし大変な厳しい重労働だっただろうと思うのですが、小谷村は降雪量が日本でももっとも多い地域で、多い時は5mくらいの積雪があったそうです。


温暖化している今とは違って、江戸時代は小氷期で寒さが厳しかったのですから、雪の降る日も積雪量も今よりずっと多かったのでしょうね(T_T)

 

千国番所の庭には歩荷(ぼっか)と牛方と牛と瞽女の像がありましたが、歩荷の出番は農作業ができず牛も使えない雪の季節だったのですから、たぶんこんな薄着ではなかっただろうと思います(^o^)

 
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塩は糸魚川から大町まで56日かけて運ばれていたそうですが、大町から塩尻まではさらに50kmあります。食物の保存にも欠かせなかった塩を、そのようにして運ばなければならなかったとすれば、旧石器時代から平安時代まで塩尻の平出に大きな集落を作って暮らしていた人々は、塩を運んでくるために多くの時間と労力を費やさなければならなかったことになりますが、そんなことをしていたはずはありませんよね。苦労して運んでくるより自分たちが海の近くに住む方がずっと簡単で楽ではありませんか(^_-)

 

諏訪湖周辺や塩尻に旧石器時代からずっとたくさんの人が住み続けていたのは、やはりその頃は彼らが住んでいた場所の近くに海があったということでしょう(^o^)

 

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