2016.4.5 北の縄文遺跡群
私は北海道の遺跡については何も知らなかったので、函館に縄文時代の遺跡があることを知って驚いたのですが、日本で竪穴住居跡が最も多く見つかっているのは、函館どころかもっと北のオホーツク沿岸の常呂(ところ)町や標津(しべつ)町で、最古の環濠集落は北海道苫小牧市にある縄文中期の静川遺跡なのだそうです。
古代史の歴史教育は奈良・京都に偏りすぎていますよね~<(_ _)>。これは『記紀』信奉者の歴史学者さんたちが「初めて人間になった神武天皇」以前の日本は「神代」だとしてきたからではないかと思うのですが(^_-)、私は北海道の縄文遺跡どころか関東地方にたくさんの古墳があるということさえ知らなくて、それを知った時には驚いて、なぜ京都や奈良から遠いしツチグモしか住んでいなかったはずの関東にそんなにたくさんの古墳があるのだろう?それらはいったい誰のお墓で誰がそれを造ったのだろう?と疑問でいっぱいになってしまいました。
私だけが関東にも多くの古墳があることを知らなかったのかと思ったのですが、そのことを書いた時、大阪のみつさまから「関東の古墳についても少しは教えて欲しかった」というコメントを戴いて、やはり関東の古代については誰も何も教えられていないようだということが分かり、教えられなかったのは教える立場の人たちが何も分かっていないからなのだろうと考えました(^_-)。
でも、関東以北についてはもっと何も教えられていませんよね(^_-)。三内丸山遺跡が大きなニュースになった時も、もっと北の北海道にも縄文遺跡がたくさんあるという話は聞きませんでしたから、「エッ、北海道にも遺跡があったの?」と驚いたわけです(^_^.)。
最近になって函館や青森の遺跡を含む「北の縄文遺跡群」18カ所がユネスコの世界文化遺産登録に申請されているということを知ったのですが、このうち北海道のものは「キウス周堤墓群、入江・高砂貝塚、北黄金貝塚、鷲ノ木遺跡、垣ノ島遺跡、大船遺跡」の6遺跡で、常呂や標津の遺跡は含まれていなかったので、もっと北の常呂町や標津町にも大規模な遺跡群があったことを知ってまたまたびっくりでした(^o^)。こちらはこちらで「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」として史跡常呂遺跡の世界文化遺産登録を目指しているそうです。
この常呂町と標津町の遺跡群は、雪に覆われるため腐食が進みにくく、火山灰も少なくて開発もされなかったので保存状態がよく、縄文時代早期からの数千カ所の竪穴住居跡が残っているのだそうですが、長い間に渡ってたくさんの人が住んでいたのですから、縄文時代の北海道は温暖で湿潤で食料も豊富でよほど暮らしやすい所だったのでしょうね(^o^)。
司馬遼太郎氏は「街道をゆく オホーツク街道」に、「流氷期には海獣がとれるし、ふだんでも、淡水・海水の魚介がゆたかで、野には小動物がかけまわっている。常呂川には、季節になると、サケやマスがのぼってくる。採集のくらしの時代、常呂は世界一のいい場所だったのではないか」と記されているそうです。
これは今の状態を見ての感想のようですが、その上、8000~5000年前の縄文時代の北海道は今よりずっと温暖だったようですから、ほんとうに暮らしやすい所だったのでしょうね(^o^)。