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池生神社50 アフリカ・マリの新石器時代遺跡と縄文遺跡3

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2016.4.4 池生神社50 アフリカ・マリの新石器時代遺跡と縄文遺跡3

 

サハラ砂漠に新石器時代の遺跡がたくさん残された時代は、日本では縄文文化が花開いていた時代で、その頃の日本では世界に先駆けて土器が作られていて、豊富に採れる新鮮な魚介類を煮炊きして豊かな食生活を送っていたようです(^o^)


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↑は3.28の記事で、鳥浜貝塚から見つかった魚介類を煮た痕跡の残る縄文時代の土器の写真ですが、各地の貝塚に積み上げられた貝や魚や動物の骨の量や種類を見れば、この時代の食糧事情がとても豊かだったことがよく分かりますよね(^_-)。そしてそのことは、この時期に人口が増え、文明が興っていたことからも裏付けられています。


縄文遺跡からは土器だけではなく、装身具もたくさん出土するようですが、温暖で湿潤で食材が豊富であり、食が足りていたからこそ文化が栄え、おしゃれを楽しむ余裕もあったということなのでしょう(^o^)


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鳥浜貝塚

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現在の鳥浜貝塚は三方湖の近くですが、海からは離れています。けれど、縄文時代の人々は海まで貝を採りに行ってここまで運んできてからここに捨てていた訳ではなく、当時の海はもちろん鳥浜貝塚のすぐそばにあったのであり、三方五湖も当時は海だったのです。三方五湖のうち一番内陸にある三方湖は、現在は淡水湖になっていますが、水月湖・菅湖・久々子湖は汽水湖、日向湖は海水です。

 

三方五湖

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ところで、ここも海際だったのではないか?と鳥浜に向かう途中で行ってみた三方郡美浜町宮代の彌美神社の境内には「皇孫ニニギノ尊宮殿」の碑があったので、なぜここにニニギノミコトの宮殿があったのだろう?と不思議に思ったのですが、これも歴史学者さんが「・・・と考えてよい」「・・・と考えたい」ということで作り出してしまった「謎」のようです(^_-)


彌美神社

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また鳥浜貝塚からさらに南西に23km内陸にある向笠では、戦後にこの辺りを干拓した時、縄文時代の丸木舟や櫂がいくつも出てきたそうですから、当時の海はここまで入り込んでいたのです(^o^)

 

航空写真を見ると小浜線は平野部を縫うように走っているようですが、この線路が敷設されている平野部は縄文時代には海だったようですね(^o^)80代以上の方には、現在の平野が戦後の食糧増産や高度成長の頃までは海や湿地だった記憶がまだ残っているのです(^o^)夢の島や葛西臨海公園やディズニーランドなどは最近まで海だったのですしね(^_-)







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