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池生神社46 藤森一族

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2016.3.31 池生神社46 藤森一族

 

神長官家の祖廟「ミシャグチ様」は神長官家の敷地の中にありましたから、神長官家の敷地に接して建っていた「藤森神社」は藤森一族の祖廟のようです。

 

ここは名工・藤森廣八の出身地の旧高部村で、高部村には前宮があり、タケミナカタの子孫の代々の大祝(おおほうり)が住んでいた神殿(ごうどの)と、代々の神長官が住んでいた神長官邸があり、その周辺には前宮の神官を務めていた禰宜大夫(ねぎだゆう)・権祝(ごんのほうり)・擬祝(ぎのほうり)・副祝(そいのほうり)の邸があって、一帯はタケミナカタの一族と神長官の一族が住んでいた地だったのですから、神長官邸の隣に祖廟を建て大きな御柱を立てている「藤森一族」がそれらの人々に全く無関係な人だったはずはありませんよね(^_-)

 

「諏訪大社の御柱が終わると、続いて村の御柱、村の中の藤森一族の御柱、最後に我が家の御柱をする」ということは、藤森一族のそれぞれの家でも祖廟を祀っていたようですから、もし藤森神社が天津族の侵攻以前からそこにあったなら、「藤森一族」はタケミナカタか神長官家の縁者なのかもしれません(^o^)


藤森の「藤」は、前宮や池生神社の御神木の「藤」や「出雲からやって来たタケミナカタは手に藤の蔓を掲げて戦った」という伝承や、「前宮の藤蔓を切るとその家は絶える」という伝承などと関係があるのでしょうか。もしあるのであれば、藤森一族はタケミナカタの縁者なのかもしれませんね(^_-)

池生神社にあった藤
イメージ 2


もし藤森神社が、金刺有員が前宮の大祝になった後に造られたのであれば、藤森一族は金刺氏の縁者(=タケミカヅチの縁者)とも考えられますが、タケミナカタの子孫を追い出して(?)「神氏」を名乗って諏訪に入って来た天津族の金刺(諏訪)氏の縁者であれば、神長官邸に接するほど近くには住ま(め)なかったのではないでしょうか(^_-)
 

Wikipediaでは、「副祝(そいのほうり):守矢氏(方倉辺命の子孫)」となっていたので、守矢氏は洩矢神の子孫であり、方倉辺命はタケミナカタの息子なのに、守矢氏が方倉辺命の子孫というのはおかしいのではないかと思ったのですが、婚姻関係でそうなったのか、長い間には系図の混乱や詐称があったのかもしれません<(_ _)>

 

いずれにしても高部村に住んでいたタケミナカタの一族と、神長官の一族と、藤森一族は近しい関係にあったのではないかと思うのですが、ひょっとすると一族の古老はなにかご存知だったかもしれませんね。

 

その藤森一族の名工・藤森廣八が社殿を建立した田端神社は池生命の支配地だった諏訪郡富士見町にあって、田端には近郷随一の規模を誇った池生神社の位田があったのだそうですし、田端神社には御柱も立てられているのですから、この田端神社は、元は菅原道真を祀る天神社ではなく、池生命かその子孫を祀っていた祖廟だったのではないでしょうか?

 

ひょっとすると池生命の子孫に「(?)玉命」という人がいて、田端神社はその「(?)玉命」を祀る「(?)玉神社」だったのかもしれませんね。長い年月の間に池生神社は寂れ、その「(?)玉命」がなんなのか分からなくなってしまったので菅原道真を祀る天神社だということにしたのかも・・・<(_ _)>

 

これは境内にあった↓の石碑からの私の想像で、「(?)玉命」という人がいたかどうかは分かりませんが(^_-)

 
イメージ 1

 (?)としてあるのは、私はこの文字を読めなかったからです(T_T)。



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