2016.3.19 池生神社36 諏訪神社
2009年に下社の若宮社に祀られていた「御子神13柱」の名前を見て、私はタケミナカタには13人もの子がいたのか!と思ったのですが、実際はもっと子だくさんだったようで(^o^)、22人の子のうちの特に信濃の開拓に貢献した13人が「開拓の神」として若宮社に祀られていたのだそうです。すると、他の子たちはそれぞれ信濃の外に進出していって開拓に励み、その地で祀られているのかもしれませんね(^o^)。
若宮社に祀られている13人の子
他に守達神・高杜神・恵奈武耳命・都麻耶美豆比賣命・奥津石建神・多都若比賣神・垂比賣神・竟富角神・大橡神という名前の子供たちがいたようです(^o^)。
2.11にpcat2sさまが「(長野には)諏訪神社が多すぎて見たいものが見えてこない感じです」とのコメントを下さいましたが、長野に諏訪神社がたくさんあるのは、信濃の各地に散って開拓を指導していた13人の子が、その先々でまたたくさんの妻と子を持ち、そのそれぞれが開拓していったところに次々に祖廟を造ったからではないでしょうか(^o^)。
長野には諏訪神社が1219社もあるそうです。後には「勧請」などということが行われて分社も増えていったようですから、全部が子孫たちによって造られた祖廟というわけではないかもしれませんけれど(^_-)。
関東地方にも諏訪神社はたくさんあります。↓はごく最近見た和光市の諏訪神社です。
埼玉県和光市の国立埼玉病院や理化学研究所の近くにある小さな神社なのですが、私はこの辺りの地名が「諏訪」で、その西側の団地が「諏訪原団地」であることがずっと気になっていたので、先日行ってみました(^o^)。
神社自体は川越街道(254号線)と笹目通りという大きな道の交差する地点にあって、道路で削られたのか境内は狭くてなんの変哲もなく、歴史を語るものなど何も無さそうに見えたのですが<(_ _)>、境内にあった石碑に「諏訪神社由来記」として興味深いことが記されていました。
昔はここに4町8反の「諏訪山」があって、それを村人が開墾して畑にしてしまったのだそうですが、その際に土中から銅製の鏡が出てきたので、明治7年に社を建て替えてこの鏡を祀ったのだそうです。
銅鏡が出土したのですから、「諏訪山」は自然の山ではなく竪穴式の古墳だったのでしょう(^o^)。そして、この一帯の地名は「諏訪」であり、この神社の祭神は「建御名方之神」なのです。
由来記には「平安の末期に白子村の民衆が社を造って建御名方之神を祀った」と記されていましたが、路傍の祠のようなものならともかく神社は一般庶民が造れるものではありませんし、平安時代の白子村の村人がタケミナカタとかかわりがあったはずもありません。
『古事記』など見たことも聞いたこともなかったであろう村人たちがタケミナカタを知っていて、何より(ひょっとすると命より)も大事な自分の土地を削って神社を造り、なんの係わりもない「建御名方之神を祀った」りしたはずはありませんよね(^_-)。神社と境内は村人たちが田や畑を作る前からここにあったから、村人たちは明治になるまでそこを個人の土地や畑にはできなかったのでしょう。
平安時代にはここに「諏訪山」と言われていた大きな古墳があって、そこにはタケミナカタを祀る神社があったのですから、この神社は平安時代になってから民衆が造ったものではなく、関東に進出したタケミナカタの子孫が造った祖廟だったのではないでしょうか。
この神社がある場所は、白子川に落ち込む台地の東端に近い標高35mのところですから、海面が今より20m前後高かった頃にはこの台地の東裾は古東京湾から続く海だったのです。この白子川(古代の入り海)に面するハケ上には他にも神社や古墳がいくつもあるのです。
古東京湾と埼玉の貝塚 この貝塚は和光市よりずっと内陸にあります(^o^)。