2016.3.12 池生神社 池生命のお墓
タケミナカタの子孫がタケミナカタを祀っていた前宮の、本殿の後方の一段高い所はタケミナカタとその一族の墓所と伝わっていて、タケミナカタとヤサカトメのお墓と伝えられる古墳があったようですが、神長官家にも一段高い所に古墳があって祖先の墓と伝わっており、周辺には他にもいくつかの古墳があったのだそうです。
それでは、神長官家の敷地にある古墳は洩矢神と神長官一族のお墓なのではないかと考えたのですが、現在神長官家に残っている古墳は、横穴式石室を持つ7世紀の古墳だそうですから、これは初代神長官の洩矢神のお墓ではありませんね(^_^.)。
富士見町の池生神社はタケミナカタの息子の池生命の宮跡に造られた祖廟だったのではないかと考えた時、前宮にも神長官家にも古墳があるのであれば池生命のお墓(古墳)も神社の近くにあったのかもしれないと思い、池生神社の周辺の古墳の情報を探してみたのですが、古墳に関する記録は全く見つかりませんでした<(_ _)>。
けれど、池生命は実在し「開拓の神」として崇められていたのですし、池生命を祀る立派な神社も造られていたのですから、お墓も造られていたのではないでしょうか(^o^)。
これまで池生命を実在の人物だったと考えた人も、神社が宮跡ではないかと考えた人も、近くにお墓があるのではないかと考えた人もいなかったようですから(^_-)、お墓を探してみた人もいないのでしょうね。もし探してみたとしても、そのお墓は雑木林の中で木や草に覆われていて、見てすぐにそれと分かるような形ではなくなっているだろうと思います<(_ _)>。
例えば石岡市の風土記の丘の染谷古墳群は↓のような藪になっていて、藪の中に目を凝らしてみてもどこが古墳なのか全く分かりませんでしたし、かなり大きな前方後円墳でも木や草が生えて藪になっていた時には見てもその藪が古墳だとは分かりませんでしたから<(_ _)>。
でも、もしも池生命のお墓が神社の近くにあるとしたら、時期から考えて父のタケミナカタのお墓に似たものなのではないかと考えて、前宮の古墳の大きさや形などの記録がないかと探してみたのですが見つかりませんでした。
現在御神陵とされているものは、「ご神木の藤の古樹を中心に石垣を積んだもので、昭和七年までの御神陵とは全く似ても似つかぬもの」だとyatsu-genjinさまが記されていましたが、タケミナカタのお墓と伝えられていた前宮の古墳はいつ頃造られたものなのかが分からなかったので、その古墳が2~3世紀よりずっと後に造られたものなのであればそれはタケミナカタのお墓ではないということになりますから、もし記録が見つかっても参考にはならなかったかもしれません<(_ _)>。
けれど、諏訪では「タケミナカタが出雲からやって来た時、タケミナカタは手に藤の蔓を掲げて洩矢神と戦った」と伝わっていて、その神陵に植えてあるのは藤の木であり、「その藤の蔓を刈るとその家は絶える」と言われていたそうですし、息子の池生命を祀る池生神社でも藤の木がご神木とされていましたから、タケミナカタの一族と藤の木には何か深い関係があるのかもしれません。
池生神社の藤の木