2016.3.4 池生神社24 前宮とミシャグチ様2
3.1の「池生神社23 前宮とミシャグチ様」の続きに戻ります。
学者さんたちが「前宮の本質はミシャグジである」と解釈しているのは大間違いで、前宮はタケミナカタの子孫達の祖廟、ミシャグチは神長官家の祖廟だったのですから、タケミナカタの宮のあった前宮にタケミナカタを祀る本殿が造られたのは当然で、神長官家の祖先のミシャグチ様は1800~1700年前頃から現在に至るまで、洩矢神の宮があった神長官家の敷地にその子孫の守矢氏によって大切に祀られて来たのです(^o^)。
神長官家が祀って来た祖廟のミシャグチ様
ミシャグチ様の周辺にあった祠にもちゃんと御柱が立てられていましたが、歴代の神長官を祀った祠なのでしょうか?
なお、「神長官 守矢史料館のしおり」では、ミシャグジではなくミシャグチとなっています。「ミシャグチ様のこと」には、この神様にはいろいろな呼び名や当て字があるけれど、神長官家では「ミシャグチ様」と呼んでいたと記されていました(^o^)。
『諸国一の宮』によれば、上社は『延喜式』では「名神大社・南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)」であり、昭和23年に「諏訪大社」と改称したのだそうですが、本宮が造られたのは300年ほど前の江戸時代だとボランティアさんが言っていましたから、『延喜式』の頃にはまだ無かったわけですね。すると、『延喜式』に「南方刀美神社」と記された当時の上社とは前宮のことでしょうか、それともミシャクチ様のことでしょうか、それともこの二つは一体のものとされていたため「前宮の本質はミシャグジである」ということになってしまっているのでしょうか?
この前宮を祖廟として祀っていたタケミナカタの子孫の大祝は、平安時代にはタケミカヅチの子孫の諏訪氏に変わってしまっていたわけですが、その諏訪氏の19代大祝であった武田信玄の義父の諏訪頼重が1542年に甲府の東光寺で自刃して、「金刺連(むらじ)有員(初代諏訪氏)」以降上社の大祝を世襲してきた直系が絶えた後も、大祝職は諏訪氏に引き継がれ、江戸時代には諏訪藩を治めていた諏訪頼忠の四男の頼広が大祝家として分家し、藩主家とは異なる「諏方」を名乗って前宮の神殿(ごうどの)に住んでいたのだそうです。
ところで、以前「歌垣」とは学者さんたちが言うような若い男女の集団お見合いや「人妻に吾も交はらむ」というようなことをする行事ではなく、歌謡ショーや芸能大会のようなイベントだったのではないかと書いたのですが、今日の新聞にその推理の裏付けとなる記事が載っていました\(^o^)/。
平城宮の正門前で260×140mの広場が発掘され、朱雀大路を挟んで東西に広場があったことが判明したのだそうで、「聖武天皇が門前で男女が歌い合う『歌垣』を見物した」との記録もあるそうです。
宮殿前の広場で、学者さんたちが言うような若い男女の集団お見合いや「人妻に吾も交はらむ」というような無秩序なことが公然と行われ、それを天皇が見物するなどということがあったはずがないではありませんか(^o^)。
応神系王族の本貫の地であった石川の玉手橋にも、770年3月28日にここで称徳天皇に歌垣が奉催されたという説明がありました。
学者さんたちの信奉する「文献」には、「歌垣」がどのようなものだったのかちゃんと書いてあったのに、学者さんたちが「人妻に吾も交はらむ」というようなことをしていたのだと間違った「解釈」したのです。
やっぱり「他妻爾吾毛交牟」の「交牟」」は「交はらむ」ではなく「交らむ」だったのです\(^o^)/。