2015.8.1 切石の石室と石槨2 関東の石舞台・八幡山古墳
この古墳は7世紀前半に造られた直径80mの円墳とされていましたが、7世紀前半というのは622年に亡くなったアメノタリシヒコの桃原墓(石舞台古墳)が造られた頃です。この古墳を見たのは2011年だったのですが、同じ頃に造られたものだということなので、その時「飛鳥の石舞台」とこの「関東の石舞台」を比較してみていました(^o^)。
でも、2011年のこの時から現在の2015年までの間に、石舞台古墳は方形基壇の上に八角形墳を乗せたもので、この古墳以降、日本の王族の墓は前方後円墳方から下方上八角形墳に変ったのだということが分かり、ごく最近には、円墳は百済の王族の墓であることも分かりました(^o^)。
ですから、もしこの古墳が石舞台古墳より前に造られたものなのであれば、円墳ではなく前方後円墳だったはずですし、石舞台古墳より後に造られたものであれば、方形基壇の上に造られた八角形墳だったはずで、いずれにしても円墳ではなかったはずです。
この古墳は、江戸時代には既に石室の一部が露出していたそうですから、元の形は分かっていないのではないでしょうか。
この二つの古墳の石室を比較してみると
石室全長 玄室長 幅 高さ
石舞台 19m 7.7m 3.4m 4.8m
八幡山 16.7m 4.7m 3.1m
八幡山古墳の石室の規模は、大王墓である石舞台古墳とあまり変わらないようです。
622年に亡くなったアメノタリシヒコの大王墓である石舞台古墳は、一辺が55mの方形基壇に八角形の上部が乗っていたと思われますが、同じくらいの規模の石室を持つこの古墳は、直径80mの円墳(?)だとされているのですから、もしそれが本当なら、大王(天皇)の墓である石舞台古墳よりずっとずっと大きかったことになりますよね。
でもこの時代に中央から地方の統治を任されていた王族が、大王より大きい墓を造った(造れた)はずはありません。大王の墓より大きな墓を造るということは反逆行為に他ならないはずなのですから。
大王から領地を与えられてそれぞれの地方の支配者となっていた王族は、墓の形はその時々の大王墓に倣い、大きさは大王墓のほぼ三分の一ほどに自分たちの墓を造っていたのです。皇子の墓でさえ、大王墓の二分の一~三分の一に造られていたのですから、地方の支配者となった王族の墓が大王墓より大きく造られたはずはありません。
学者さんたちは地方にある大きな古墳はみな、地方の首長だった豪族の墓だとしているのですが、それならなおのこと、地方の首長が大王より大きな墓を造るということは公然と反旗を翻したということではありませんか(^o^)?
この古墳が7世紀前半に造られたものであるのなら、石舞台古墳より大きな円(八角形)墳だったはずはありません。
今は内陸になっていますが、古代には海であり「さきたまの津」だった行田市のこの辺りには、昭和になっても沼や湿地が多く残っており、この古墳は1934年に小針沼を埋め立てるために封土が完全に崩されて剥き出しになってしまったのですが、江戸時代から既に石室の一部が露出していたそうですから、この古墳は石舞台古墳より前に造られた前方後円墳で、古い時代から徐々に削られて、江戸時代には石室のある後円部を残すだけになっていたので円墳と推定されてしまったのではないでしょうか。
復元前はこんな状態になっていたようですから、元の形など分かりませんよね。
昭和9年にはこんな形だったようです。この写真から円墳だったと推定されたのでしょうけれど、ひょっとすると人々が並んでいる所は前方部だったのかもしれませんね(^_-)。