2015.7.31 切石の石室と石槨
6世紀半ばに造られた阿知使主の墓の石室は、自然石がそのまま積み上げられていたようですが、6世紀の後半くらいからはだんだん石が加工されて積み上げられるようになったようです。
6世紀半ばの真弓鑵子塚古墳の石室
6世紀後半の見瀬丸山古墳の石室
7世紀前半の石舞台古墳の石室
7世紀前半の岩屋山古墳の石室
7世紀後半の牽牛子塚古墳の石槨 この古墳も八角形ですね。
切石の技術は終末期の石槨だけではなく、6世紀後半の石室から使われていたようです(^o^)。こうして並べてみると、切石の技術の進歩がよく分かりますね。
歴史は途切れることのない流れなのですから、個別に部分的に見るだけではその流れをつかむことはできないのです。人類もその流れの中の一つの要素であって、ある時カミサマが降臨してきて突然始まったわけではありませんし、そのカミサマがある時天皇に変身したわけでもありません。それは本当の歴史ではなく、不比等が創ったオハナシなのです(^o^)。
「歴史は科学なんだ。科学でなければならないんだ」
これはシャーロック・ホームズの「犯罪捜査は科学なんだ。科学でなければならないんだ」のパクリですが(^_-)、「歴史学」がいつまでもその非論理的なオハナシの恣意的なつじつま合わせの「解釈学」であっていいはずはない、と私は思うのですが・・・・。
ところで、岩屋山古墳のきっちりと造られた石室の写真を見て、「関東の石舞台」と言われる行田市の八幡山古墳の石室を思い出しました。それを見た時、その大きさと共に緑泥片岩できっちりと造られた入り口や、これまで見た古墳の石室とは全く違う、想像もしていなかったモザイクのような壁面に驚き、「本当に初めからこんな風に造られていたのだろうか?この時代にすでにこれほどの技術があったのだろうか?」と信じられない思いがしたのですが(^o^)。
「関東の石舞台」といわれる剥き出しの巨大な石室
八幡山古墳の石室の入り口
前室
中室
奥室の入口
奥室の壁面
この古墳は「7世紀前半に造られた80mの円墳と推定される」との説明が記されていたのですが、これが本当に7世紀前半に造られたものであって、当時の姿に復元されたものなのであれば、この頃の関東の切石の技術は関西よりも格段に進歩し、洗練されたものだったということになるようですが・・・・
この古墳を見たのは2011年だったのですが、その時には分からなかったことが今いろいろ分かるようになってきたと同時に、新たな疑問もたくさん湧いてきてしまいました(^_^.)。