2016.2.11 池生神社6
6年前に訪れた諏訪大社で、諏訪に製鉄と稲作を持ち込んだタケミナカタ(ヤシマジヌミノミコト)には佐久に田を拓いたオキハギノミコトの他にも12人の子がいたことを知って、その子ども達がそれぞれどの辺りを開拓して支配地としたのかは、その子を祖神(おやがみ)として祀る祖廟が造られている場所で分かるのではないかと考えて調べてみたのですが、その時点では、
建御名方彦神別命(タケミナカタヒコガミワケノミコト) 長野市・飯山市・信州新町
伊豆早雄命(イズハヤオノミコト) 上田市・岡谷市
妻科比売命(ツマシナヒメノミコト) 長野市
池生命(イケノオノミコト) 富士見町
須波若彦神(スワワカヒコノカミ) 諏訪市大字湖南 後に遠州磐田市
片倉辺命(カタクラベノミコト) 伊那市
蓼科神(タテシナノカミ) 蓼科
内県神(ウチアガタノカミ) 茅野市
外県神(ソトアガタノカミ) 上伊那
大県神 (オオアガタノカミ) 下諏訪
意岐萩命(オキハギノミコト) 佐久
にあることまでは分かったのですが、八杵命(ヤキネノミコト)と妻岐萩命(ツマキハギノミコト)がどこに祀られているのかは分かりませんでした<(_ _)>。
でも↑の一覧で、タケミナカタの子供たちが諏訪から四方に支配を広げていったことや、その大まかな支配地は分かってきました(^o^)。
内県・外県・大県というのは何だろう?と思ったのですが、諏訪大社で購入した『諏訪大社の御柱と年中行事』には、内県は茅野方面、大県は桑原から下諏訪方面、外県は上伊那郡内と記されていましたから、古くはそのように区分されていたのでしょう。
『諏訪大社の御柱と年中行事』
それぞれの地に、その地の名を冠した神として祀られているのですから、やはり神社のある辺り一帯がタケミナカタ(ヤシマジヌミ)の13人の子供たちが開拓した土地で、それらの神社が後世の道路工事や宅地開発などで場所を移されていなければ、その神社(祖廟)の造られた所がそれぞれの宮があった所だろうと思います。
今のところ、実際に行ってみたのは意岐萩命を祀る佐久一の宮・新海三社神社と池生命を祀る富士見町の池生神社の二つだけなのですが(^_^.)、平野に面した丘という地形は同じでした。丘の下に広がる平地は古代には人の住んでいなかった湿地で、それぞれが拓いた田だったのでしょう(^o^)。大国主の一族は、先住の人たちを征服したり、土地を奪ったりはしなかったということを神長官家の伝承は伝えていますから(^o^)。
佐久一の宮・新海三社神社
池生神社
神長官家が伝えてきた伝承の内容については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第8章の2「神長官・守矢氏」、3「古事記とは異なる国譲り神話」などをご参照ください。
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