683年に天武天皇が「複都制の詔」を出して作らせた難波宮は、686年に全焼してしまったようですが、726年になると、聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手し、平城京の副都としたのだそうです。
難波の津は国内外への水上交通の要の地でしたから、歴代の応神系大王は、飛鳥や奈良に宮を置いてからもずっと難波を副都として重要視し、上町台地に難波宮を置いていたようです。
欽明天皇の時代には、百済の聖明王から贈られた仏像が難波から大和川を遡って金屋に着いていますし、欽明天皇の息子のアメノタリシヒコ(=蘇我馬子=聖徳太子)の時代には難波に外交施設として鴻臚館が置かれ、朝貢に向かう遣隋使はここから隋へと発ち、隋からの答礼使・裴世清はこの鴻臚館に着いた後、船で飛鳥へと向かったのです。
仏教伝来地
藤原腹ではなかった安積親王が王位を継ぐことを藤原一族はどんなことをしてでも(暗殺してでも)阻止しようとしていたわけですから、聖武天皇は、殺される前に安積親王に譲位してしまおうと考えたのではないかと思います。
けれど、もし安積親王に譲位しようとしていることを藤原一族に知られれば、妨害されることは目に見えていたわけですから、聖武天皇と橘諸兄は、諸兄の領地の恭仁京で密かに安積親王に譲位する準備を整え、その準備が整ったので応神天皇を始めとする歴代の応神系大王が宮を置いていた難波宮で抜き打ちで安積親王への譲位を決行しようとし、それを察知した藤原氏が慌てて安積親王を毒殺してしまったということなのではないでしょうか。
韓国歴史ドラマには「殺されないための唯一の方法は王になることだ」というセリフが出てきましたが<(_ _)>、古代には王(天皇)位を継ぐ前なら暗殺してしまうことができても、王(天皇)になってしまったら殺すことはできなかったということでしょうか。
けれど時代が下ると、たとえ王になっても常に暗殺される危険は付きまとっていたようです<(_ _)>。
それにしても似たような場面がよく出てくるので、韓国歴史ドラマを見ていたら「日本の古代史の謎」とされているものがどんどん解けてきてしまったのですが、つじつまの合わないことは全て「謎である」として片づけている歴史学者さんたちは、韓国歴史ドラマを見たことがないか、もし見たとしても『記紀』を信奉するあまりに「天皇家はカミサマの子孫なのだからドラマような権力闘争とは一切関係なかったはずだ」と思い込んでいるのでしょうね(^o^)。