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鵜野讃良皇女と安倍内親王23 難波宮

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2019.8.14 鵜野讃良皇女と安倍内親王23 難波宮
 
安積親王が恭仁京を出て難波に向かったのは、「難波京」ではなく「難波宮」へ行くためだったようですが、それではなぜ安積親王は難波宮へ向かったのでしょうね?
 
難波宮を調べみると、wikipediaには
 
難波宮(なにわのみや)は、古墳時代、応神天皇の難波大隈宮や徳天皇の難波高津宮、欽明天皇の難波祝津宮。以来、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代の宮殿、日本の首都であり都城
 
とありました。「日本の首都であり都城」ということは「難波京」という都があったということなのでしょうね?けれど、都どころか「難波宮」の存在自体『日本書紀』には載っているものの第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明だったのだそうです。
 
実は2012年に大阪探訪に出かけた時、大阪は初めてで全く様子が分からなかったので<(__)>、まず「難波宮跡」へ行ってみることにして、そこを出発点にしたのですが、そこにあった説明版を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですよね<(_ _)>
 
難波宮跡
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前期難波宮後期難波宮があると記されていて、前期難波宮は孝徳天皇の「難波長柄豊崎宮」だと記されていたのですが、それでは学者さんたちはそれ以前の「応神天皇の難波大隈宮」・「仁徳天皇の難波高津宮」・「欽明天皇の難波祝津宮」はいったいどこにあったと考えているのでしょうね?
 
仁徳天皇・孝徳天皇は架空の天皇ですから「仁徳天皇の難波高津宮」や孝徳天皇の難波長柄豊崎宮はあるはずがありません。前期難波宮は100%「孝徳天皇の難波長柄豊崎宮」ではないでしょう(^o^)
 
孝徳天皇は舒明天皇の皇后の弟だとされていますが、天皇の弟ならともかく皇后の弟が「万世一系」のはずの天皇になれたはずはありませんし、そもそも舒明天皇自体が架空の天皇なのですから、その妻が皇后だったはずもなく、ましてや架空の舒明天皇の死後、その妻が(皇極)天皇になったとか、その弟も(孝徳)天皇になったとか、さらには妻が重祚までして(斉明)天皇になったとかというのは、すべてつじつまを合わせ、中大兄を天皇の子(皇子)に仕立てるために『日本書紀』が作り出した真っ赤なウソなのです。
 
応神天皇の孫の欽明天皇が571年に亡くなった後の654年までの敏達・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明の8人の天皇はみな架空の天皇で、実際は
 
571585 用明天皇
585622 アメノタリシヒコ(蘇我馬子)
622640 蘇我蝦夷(倉麻呂)
640649 蘇我入鹿(石川麻呂)
649671 天智天皇(中大兄)
でしょう。
 
↑の640年は、石川麻呂が山田寺の造営を始めたのが641年であることから640年頃に石川麻呂が王位に就いたのではないかとの推理で、649年は、「入鹿が殺されたのは645年の大化の改新」とされていますが、石川麻呂が山田寺で中大兄に殺されたのが649年であることから、645年の大化の改新は「架空の人物である蘇我入鹿とその係累」を消すための騙りであって、実際のクーデターは649年であろうという推理です。
 
そして『日本書記』は中大兄の即位は668年と記していますが、645668年に在位したことになっている中大兄の叔父の孝徳天皇・母の斉明天皇は架空の天皇ですから、649年にクーデターで大王・石川麻呂を殺した中大兄がその年に王位に就いたと考えるのが自然であろうと思います。

豪族・蘇我石川麻呂の孫とされている鵜野讃良皇女は実際は中大兄に殺された大王・石川麻呂の孫なのです。

 

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