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桶川市の熊野神社古墳2

2019.6.8 桶川市の熊野神社古墳2
 
熊野神社古墳が4世紀後半に造られた古墳であるならば、円墳ではなく前方後円墳のはずなのですが、もう一度行ってみてもやはり円墳のように見えました。
 
2019.5.26の熊野神社古墳
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イメージ 1
 
けれど前方後円墳だった稲荷山古墳も丸墓山古墳も前方部を削られて円墳のようになっていたことが分かりましたから、
 
昭和43年の稲荷山古墳
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イメージ 2
 
もしかするとこの古墳も前方部が削り取られたために円墳のようになっているのかもしれないと思って後ろに回ってみると、後ろ側は道路際まで空き地のようになっていて、その部分は道路や周辺の土地よりもわずかに高くなっているように見えました。ここに前方部があったのかもしれません(^o^)
 
この古墳の粘土郭の埋葬施設からは大量の碧玉製品や玉杖の一部や紡錘車型石製品などが出土したそうですが、その出土品は奈良県のメスリ山古墳の出土品と類似しているそうです。
 
熊野神社古墳の出土品
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イメージ 3
 
そのメスリ山古墳とは、4世紀初頭に奈良県桜井市に造られた古墳で、墳形は前方部が細長い「柄鏡形」だそうですから、それなら同じ4世紀に造られ、出土品も類似しているというこの熊野神社古墳は円墳ではなく、メスリ山古墳の墳形に倣ってその何分の一かの大きさに作られた柄鏡形の古墳だったのではないでしょうか。
 
メスリ山古墳 古墳自体は大きすぎて写せませんでした<(_ _)> 
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イメージ 4

メスリ山古墳は4世紀初頭に築造された墳丘長224m、後円部の高さ23mの柄鏡型の巨大前方後円墳で、三角縁神獣鏡、鉄弓などの鉄製品、銅鏃、碧玉管玉、埴輪などが多数出土していたそうです。後円部の径は128mだそうですから、後円部径が38mの熊野神社古墳は、メスリ山古墳の三分の一の大きさで造られたのかもしれません。
 
メスリ山古墳はそれほど大きな古墳なのに、記紀や『延喜式』などに陵墓としての記載がないため、宮内省はメスリ山古墳を「天皇陵」に治定していないそうです。
 
初瀬川の左岸にあるこの古墳は、桜井茶臼山古墳などと共に鳥見山古墳群に属していて、箸墓→西殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に築かれたと想定されているそうですが、3世紀半ばから4世紀後半にかけて作られたこれらの古墳は、宮内省によって3世紀半ばに造られた箸墓古墳は紀元前のヤマトトトヒモモソヒメの、4世紀前半に造られた行燈山古墳は紀元前の崇神天皇の、4世紀後半に造られた渋谷向山古墳は12世紀の景行天皇の墓だということにされています。
 
けれどヤマトトトヒモモソヒメと景行天皇は架空の人物ですから、巨大なお墓などあるはずがありませんし、何より死亡時期と古墳の築造時期が全くあっていませんよね(^o^)
 
崇神天皇は実在した人ですが、紀元前ではなく4世紀後半から5世紀初めの人であって、その陵は4世紀前半に奈良に造られた行燈山古墳ではなく、大阪の古市古墳群の中にある5世紀初頭に築造された「誉田山御廟古墳」です。そして崇神天皇は第10代天皇ではなく、河内王朝の初代の大王(天皇)であって、『記紀』の崇神天皇以前の天皇はみな架空の人物なのです。
 
神武天皇は、大宰府に後に「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた九州王朝を開いた初代王かもしれないと思うのですが、東征してきて河内に王朝を開いたのは崇神天皇ですから、神武天皇は実在したとしても、河内王朝の初代王でもヤマト王朝の初代王でもありません。



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