熊野神社の西側には富澤湧水が、東側には小島家湧水が今も湧き続けているのに、熊野神社境内の湧水が枯れたのは、神社の背後のハケの上に大きなマンションが建って水脈が断たれたからでしょうか? 航空写真を見ると、このマンションはハケの縁に沿って長い壁のように建っているようですが<(_ _)>。
清滝不動院・熊野神社の背後のハケ上に建つマンション
もしそうだとすれば、それまで滝になって境内に流れ落ちていたという武蔵野の宙水は、今はどうなっているのでしょうね?最近は湧水量が減っているとはいっても、出口を失った水は地下に溜まって台地の上のどこかに湧出しているのでしょうか?それとも礫層をの中を東西に回って小島家湧水・富澤湧水となって湧き出しているため、この二つの湧水は冬でも枯れないということなのでしょうか?
滝坂には「明治9年には湧水を利用した日本最初の養魚場が熊野神社の境内に造られた」と記されていましたから、明治時代には熊野神社の境内の湧水はそれほどに量が多かったようなのですが・・・・
滝坂説明
和光で入手してきた↓の資料を見てみたら、近代化・都市化に伴って枯渇し、「滝坂」に名を遺すだけになっていたこの湧水は、近年になって突如湧き出したのだそうですから、やはり熊野神社に湧出していた宙水がそちらに回ったということかもしれませんね(^o^)。「無から有は生まれない」のですから。
わこう日和
水は生きていた
これを見て、縄文時代に枯れてしまった旧石器時代の湧水が、何千年も経った2007年になって突如再び湧き出したという鈴木小学校の石神井川の源流のことを思い出したのですが(^o^)、
消えたり現れたりする湧水のことを考えていたら、さらに意識が「さまよえる湖ロプ・ノール」に飛んでしまいました。タリム盆地の東側にあったという大きな湖ロプ・ノールとそのほとりに栄えていたという記録の残る古代都市楼蘭。なぜその湖が消え、古代都市・楼蘭は消滅したのか・・・・
旧石器時代には鈴木小学校の湧水池の周りにあった集落が、縄文時代には消滅して人の住まない原野になっていたのと同じことが起きていたのではないか・・・・