2019.3.25 武蔵野台地と湧水93 川越街道 白子宿3
白子川の右岸の練馬側は平らなのに、左岸の白子側は起伏が激しいのを不思議に思っていたのですが、ここが武蔵野台地の端だったのですね。白子川は海が退いた後に、湧水が海まで流れていく水路として台地の下に残ったのでしょう。
この武蔵野台地の端は清水山の方から白子川が新河岸川に注ぐまで続いているようですが、台地の上は標高30m前後、台地の下は13m前後で標高差が20m前後の崖になっているため白子川の左岸は起伏が激しいのです。そして、ここでもやはり武蔵野台地の端の急斜面は清水山・稲荷山・越後山などのように「○○山」と呼ばれていたようです。
標高13m前後は奈良時代頃まで海だったようですから、白子川の右岸の練馬側が平らなのはその頃の波や堆積物によるものだろうと思います。この台地の端に縄文時代の遺跡や貝塚があり、海の貝や魚の骨が出てきたのは、ここがその頃海だったからなのです。学者さんたちは一様に「武蔵野台地は多摩川に削られてできた」としていますが、海のない埼玉県の台地の上の川にカキやハマグリやスズキやボラが塚になるほどたくさん生息していたはずがないではありませんか。この貝塚のある台地の端から見下ろす白子川の周辺の低地は、縄文時代には海だったのです。
吹上貝塚
今日の新聞に「『自分の頭で考える』大切に」というコラムがありました。歴史に関するものではなかったのですが、「これまでやってきたことだからと深く考えずに惰性で続いてきたものもあるように思います。・・・「待てよ」と立ち止まって考えていれば、もっと前に判明したものもあるはずです」という文言がありました。
歴史解釈も地形解釈も同じではありませんか?先人が唱えた非論理的な説に、これまでに(私よりずっと頭脳明晰で人格が高潔であるらしい)学者さんたちが少しでも疑問を持っていたなら、「武蔵野台地は多摩川が削ってできたものだ」などという珍妙な説はとっくに「過去の話」になっていたはずですし、『記紀』の神話はウソだということが分かっていたはずなのです。
でも、今、どの資料を見ても「武蔵野台地は多摩川が削ってできたものだ」と記されていますし、この国の成り立ちを書いているのだという『ワカタケル』は、大后がホトを剥き出しにして相手を倒したり、巨大な男になって現れた吉備の温羅(うら)が、霊力のある犬に噛みつかれて髑髏になってしまったりとますます荒唐無稽なオハナシになってきています。「この国の成り立ちを書いている」のではなく建国神話ファンタジーを創作しているのであれば、それもありなのでしょうけれど<(_ _)>。
やっぱり私はチコちゃんに「いつまでも固定観念にしがみついて非論理的なつじつま合わせばかりしてんじゃね~よっ!!」と学者さんたちを叱ってもらいたいなと思います (^o^)。