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武蔵野台地と湧水71 山王窪2

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2019.2.27 武蔵野台地と湧水71 山王窪2
 
山王窪の全体の形や規模は分からなかったのですが、見える範囲では山王稲穂神社の辺りから土地が窪み始めて、↓の写真の中央辺りで一番低くなり、そこから向こう側の高台に向かって高くなっていっているようでした。

イメージ 1
 
仙川はこの窪地を横切って西から東に流れていたようですから、この窪地は仙川の流れる谷で湿地であり、大雨が降ればすぐに水浸しになっていたのでしょうね<(_ _)>
 
窪地を横切る仙川の水路
イメージ 2

 
イメージ 3

北側の尾根を通っている玉川上水からの分水を、この窪地を越えて南に渡すために、仙川の流れる谷の一番狭くなっている所に土手を築いて川と用水路を立体交差させて横切ったのですね。石神井川と立体交差する土手を築いて窪地に送水管を通した「馬の背」と全く同じものだったようです。

馬の背
イメージ 4
 
仙川が流れ、大雨が降れば水浸しになるほどに水があったとしても、谷底を流れている水は、汲み上げなければ高台の田や畑に使うことはできませんから、水は高い所から引いてこなければならなかったのですね。
 
この窪地もその周辺も、現在は住宅で埋まっていますが、戦前までのこの辺りは純農村だったそうで、小金井の文化財センターには昭和19年頃の山王稲穂神社と「山王窪の築樋」の写真がありました。
 
イメージ 5
 
中央のこんもりした森が山王稲穂神社で、その右側の道の突き当りに見えている土手が元禄9年頃に造られた山王窪の築樋だそうです。その頃は、神社の周囲の高台は畑だったようですが、窪地の底はすぐに水の出る湿地で家など一軒もなかったのでしょうね。だから現在のような大規模な住宅開発ができたのでしょう。
 
山王窪の現在の住所は「貫井北町」かなと思ったのですが、山王稲穂神社の住所を調べてみたら、「東京都小金井市本町5丁目4136」でしたから「貫井北町」ではなく「本町」だったようです。



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